海を越え、空を越え、日本人がル・マンの地に降り立つ。
大金を投じ構えた欧州の基地を出て、ポールリカールでテスト。
やがて、ジャコバン広場の車検場に、
トランスポーターに乗せられたマシンがやってくる。
お花屋さんで、花束でも買うかい?
いやいや、そんな余裕はないよ。
もう戦闘モードなんだから。
片や、フランスのビッグメーカーチームは、
名将の強いリーダーシップの下、
飛行機メーカーで車体を製作し、
万全の準備で、東洋からの敵を迎える。
今思う。ジャン・トッドといえども、敗北の恐怖感はあったと。
負けたらどうする? そんな恐怖心を絶対に見せないで、
淡々と、淡々と、采配を奮った男がいた。
1993年の名勝負が始まっていく。

この文章は、1993年のさまざまなメディアに、
私が書いた文章を基に、2015年9月、
改めて書き下ろしたオリジナル作品です。
冒頭のアバンタイトルも新作。
本文中の文章も、手をいれ、注釈も入れたニューバージョンです。
(では、はじまりです)
~レースは戦争ではない。しかし~
僕たちには戦後民主主義がある。自由にものが言え、好きな道を進むことができる。
日本には高等な教育があり、高度な工業力がある。優れた製品を生み出し、世界に売る販売力がある。
反面、横並びを良しとする、世間体を重んじる風習や、人の分まで働くという思いやりのある(善良な)国民性を持っている。
その中でレースをやってきた。
フランスには自由、平等、博愛の精神がある。それは彼らが何百年も戦って勝ち取った理念と哲学であり、決して「善意で地位を譲る〝禅譲〟の精神」ではない。
戦わねば、己の幸せはない。優秀な司令官、優秀な兵隊、軍隊を持っている国ならではの規律がある。
レースは決して戦争などではない。しかし、勝利へのシステムは似かよっている。1993年ル・マンで筆者が見たものは、僕らが愛する日本型民主主義社会の、横並び発想が、歩速をゆるめさせ、隅々にまで勝利への執念を行きわたらせたフランスのシステムが勝利した事実であった。
レースの折々に見た、聞いたトヨタ・チーム・トムス、舘信秀代表の言葉やしぐさは、筆者も習った"日本型社会規範の苦渋〟でもあった。

~恐竜を倒し、凌駕する時を夢に見た~
ル・マンは、巨大な恐竜だと。筆者は常々思っている。
毎年、足を運んでは、しっぽに触れ、背びれに触れ、少しづつ学習しては帰っていく。
それでも1991年にマツダが一刺ししたことに涙を流し、今年はトヨタが、この恐竜の喉元に喰らいつき、ドタッと倒すところを見ようと、やってきた。
悲願を達成し、号泣するかもしれない舘代表の姿を見られれば望外の幸せだと思っていた。
6月15日。ジャコバン広場での車検。舘さんはここには姿を見せなかった。
筆者も他の取材に奔走していたが、時間を見つけて、関谷正徳選手と広場でしゃがみこみ。こんな話をしたことを覚えている。
「荷が重いね、今年は。ほかのスポーツと違って、自分の体ひとつで戦うもんじゃないから、いろんなファクターがあるから。クルマはすごく良くなっているよ。タイヤも(プジョーと同じ)ミシュランだし、それこそ、エンジンが一緒というくらいのレベルアップだから、タイヤで負けたとはもう言えないよね。いろんな積み重ねがあって、僕はその代表として走るわけで、プレッシャーですよ。見ているほうはね、おもしろいだろうね、勝つか負けるかだもん。相撲と同じように見られるよね」
舘信秀さんがル・マンに姿を現したのは翌16日水曜日。予選初日直前の18時頃であった。
白いシャツ、赤のズボン。極彩色の派手な靴下が妙に目立つ。いつものレースと同じ笑顔。やぁやぁと、関係者と語らう。
しかし、どこか寂しそうだ。チェレンジ9年目のル・マン。舘さんはトヨタ・チーム・トムスの代表であって、監督ではない。具体的な指令を出すのは鮒子田寛氏であって、舘さんは無線のモニターを聴いているに過ぎない。
とはいえ、19時に予選がはじまると、眉間にシワが寄り、ガラッと表情が変わっていく。
スタンドに目をやれば、グッと観客が増えてきた。
「まあ、今年のル・マンも、心配してたけど、なんのかんの言ってやっぱり伝統があるんだよねぇ」 と、筆者に第一声を放つ。
落ち着かないようだ。ダンロップの京極正明氏(故人)と話をするかと思えば、高橋国光氏とおじぎして挨拶。関谷正徳氏がピットウオールに来ると軽口で笑いあったあとは「いいか?サインボードはこうやって出すんだ』とばかり、メカニックに出し方を伝授。
36号車、アーバインが当面のトップに立ち、耳の無線にうなずくようにしているかと思えば、ピットガレージの奥深く入っていってしまう。
結局、話を聞けたのは翌17日に開催されたトヨタのパーティの席だった。

~クルマは素晴らしく速い。チームは三本の矢~
「そう、そうですね。まあ今回、すごく走り込んでいるし、テストを見る限り、いい感じだから、ル・マンに入って、特に驚くこともないし、逆に落胆もない。まあ平常心に近いかな?僕はほら、負けん気が強いから、やっぱりポール狙ってほしいけどね、でも今回、勝てるチャンスありますから、あんまり予選は狙わないということでいいと思います」
昨日、一日の印象と、今の心境を聞く。
「セッティングを早くすることが重要ですから、どこをどういう風に変えてくるか見てましたけど、あまり大幅な変更はない、フロントのショックとか、ウイングの調整くらいで大きくいじるところはない。いい感じかなと思っています」
今年、舘代表が「あゝしろ、こうしろ」といった指示は出さないのだろうか?
「ないですよ。うん、ない。最初の方針の時に参加するくらいで…。現場のことは鮒子田にまかせてありますかね。細かいところ、知るとダメなの。よけいドキドキしてきちゃって(笑)」
とはいえ、決勝がスタートすると気を揉むことばかりではないのか?
「そう、もうだいたいパターンが判ってますよ。一番長く感じるのが、夜が明けてからでしょう。とりあえず山場は、夜が明けるまで。次に、どこで悪魔が待っているかわからないという話はよくあるからね。最後の最後まで気を抜けない。ハラハラ、ドキドキですよ」
舘代表はル・マンに入るまでポーのF3000、イギリスのツーリングカーレースとヨーロッパを転々としていた。(2015年筆者注:おそらくこの時期、英国トムスGBの経営や、その他業務があり疲れていたのかもしれない)
去年はやや体調をくずし、入院もした。
「おかげさまでもう完治しました。今年は元気ですからご心配なく」
その日の夕方(17日)筆者は高速のポルシェコーナー外側で2日目の予選を見た。
トヨタTS010は、かん高いV10サウンドを響かせ、5速のままポルシェコーナーを抜けていく。速い。プジョーを圧倒して余りあるポテンシャル。
ドライバーも口々に言う。とにかくクルマが速くなった。 菅生、富士、ポールリカール、ル・マンでのテストで、十分戦闘力が確認できたという。筆者のコース目視でも『トヨタに十分勝機あり』がうかがえた。
トヨタが用意したTS010は3台。エントリーはトヨタ・チーム・トムスということになっているが、メンテナンスは36号車がトムス。37号車がTRD。38号車がトムスGBである。
トヨタではこれを「チーム三様の考え方で、優勝という山を三つの方向から登る」と称し、情報を共有しながら、三者三様のセッティングを進めてきた。
だが、ここに、巨大で強力な司令塔が見えない。舘は代表の肩書きであり、時には総監督とも呼ばれていたが、決して陣頭指揮はしない。
その一方で、リリースによれば、トヨタ3台の監督は鮒子田寛氏だという
ことになる。しかし三つのチームを強力に統括し、絶対的権限をふるっているようには見えなかった。
いい方を変えれば、民主的な、匿名のトヨタ・グループによるレース指導ということになるのだろうが、そこが大変、気になっていた。トヨタということは判っても、顔が見えてこない。一体誰がタクトを振るのか?
~トッドのこと。舘のこと~
このレースを最後に、プジョー・タルボ・スポールを離れ、フェラーリ入りするジャン・トッドは、車検の日、ジャコバン広場に姿を見せ、メカニック一人一人と、いつくしむように握手をして回っていた。
筆者を見つけると「来たね」と言って握手。彼とはパリダカ、マリ国のバマコで、長時間話したことがある。
プジョー205を製作し、WRCを席巻。パリダカを制し、SWC、ル・マンを制してきた巨匠も、昔はただのクルマ好きな少年。夢はクルマ関係の職業に就くことだった。
プジョーは彼の才能を認め、地位を与え、下はその司令に従ってきた。
ジャン・トッドは、フランスではスターである。
歩けばサインをねだられ、ル・マンのピットに立つと、歓声があがる。
四年前、フレンチオープンテニスをテレビ東京で見ていたら、フランスのテレビは客席にいたジャン・トッドをアップで映し出した。
残念ながらテレビ東京のアナウンサーは誰だかわからずコメントもなかった。
日本の舘信秀が、国内のテニス大会を見に行っても、そんなテレビに映ることはおそらくない。
トッドと、舘さんの差を比べる気持ちはまったくない。比べたいのは国情である。
フランスでは、自動車レースの知将イコール、スポーツ界の有名人であり英雄なのだ。日本という国では、舘信秀がそうなるのを阻止する、というかどこまでも無知である。なにせ民主主義の横並び社会。出る杭を打つ国である。
(2015年補記。これを書いた1993年時点でフェラーリでのトッドの活躍はまったく予測不可能であったが、トッドは、1997年からフェラーリを復活させ始め、1999年からコンストラクターズ6連覇、シューマッハも2000年から04年まで5連覇を達成。フランスの第一等勲章も受章した。言うまでもなくその後はFIAの会長まで登りつめた。まさに自動車業界の最大の出世頭といえる)

(再び当時の記事に戻ろう)
ジャン・トッドの印象を舘信秀氏に聞いてみた。
「やはりあの人は、すごく優秀だと思うし、あの人が欠けることで、プジョーにとっては、いい人がいなくなって気の毒だと思います。大変引っ張る力のある人。今年来なきゃ、ゴムのないパンツみたいかな、と、思ったけど(笑)来てるから、ちゃんと締まってるじゃないですか」
でも、やめることで不協和音もありそうだ。
筆者が会ったプジョーの某役員も顔をしかめて「なんでフェラーリなんかに行くんだろ?」と言った。
それに対して舘さんは、
「うん、まあ、不協和音という噂はあるけれど、どこも同じでしょ?企業がレースに臨むと、いろんな人が、いろんな考えを持ってやりますから、皆さん目的は同じでも、プロセスが違うから。そりゃ、ウチだって、不協和音まではいかないが、ドライバーだって、相性のいいエンジニアと組みたいとか、メカニックの質だとか、言い出したらキリがない。今年、そういう意味ではトヨタ・グループは、クルマがよく走ると、うまくいくんです」と軽やかに笑った。
誤解を招かないよう何度も書くが、トッドと舘の比較ではない。しかしながら、舘信秀氏も充分、優秀な人である。
舘は1947年三重県鈴鹿市に生まれた、65年にパブリカでデビューし、67年からトヨタ車を中心に活躍。数々の優勝を誇るドライバーである。
庶民的で、誰とでも話をしてくれるアイビー世代のナイスガイ。ただ、それだけに威圧感がなく、それこそ20歳代のメカニックでも「舘さん、それだめ」と言ってしまえるようなノリがある。
戦後民主主義の、あまり上下の隔てのない、緩やかな関係とでも言おうか、そうした漠然とした雰囲気がル・マンの地にもあった。
~スタート前はドライバーの心境~
1993年6月19日、15時。スタート進行が始まり、サルト・サーキットはあわただしくなった。気分は高まる。
「やっぱり、過去8年間振り返ってね、優勝のチャンスと言うのは、去年も、なくはなかったけれど、本当に強い相手を向こうに回して優勝できるような状態ではなかったですよね。今年はプジョーと本当の勝負ができるんじゃないかと思うと、気持ちは高まりますよ」
「まかしといてください。いいレースしますよ」
天気は上々、気温も上昇した。
舘氏は36号車のピットサインエリア(ピットウオール)に張られたテントの下に、白いプラスチックのガーデンチェアを持ち込み、ここでレースの成り行きを見守ることにした。
車両の状態は37号車のピットガレージ内に作られたテレメトリー室のコンピュータで管理し、38号車はトムスGBが、37号車はTRDが、36号車はトムスが指令を出す。
スティント(ドライバーのワンクール)も24時間分ほぼ決まっており、36号車で言うとアーバイン、鈴木利男、関谷正徳の順番で行く。
レースは炎のようにはじまり、アリオーとアーバインが火花を散らし、序盤に36号車がトップに立ちやがて2番手に落ち着く。
しかし37号車にトラブルが出始めピットインが相次ぐ。36号車もアリオーのクルマが吹いたオイルをモロにかぶってピットイン。勝利を狙うなら起きてはならないトラブルが出始めて、じりじりと遅れていく。
舘氏は、パドック内のモーターホームで戦況を見つめていたが、近づいて「いろいろ出始めていますけれど」と言うと「うんうん」とうなづきながら、吸いかけた葉巻を消して、マイクロバスの中に入ってしまった。
~乾いた言葉。知将の涙~
20日、午後3時40分。大勢は決した。プジョーの新人エラリー、ブシュー、ブラバム組の3号車が優勝し、1号車、2号車がそれに続いた。
関谷組36号車はなんとか4位。38号車は8位。TOYOTAの夢は砕け散った。
筆者ももうインタビューなど野暮なことはしない。ピットウオールに近づいてきた舘氏の姿を見つめる。
関谷夫人の葉子さんが、スタッフと共に関谷正徳の走りを見ていた。
「ヨーコはすぐ泣くからなあ。泣くんだろ」
舘氏が、元気なく冷やかす。葉子さんは「寂しいよう、寂しいよう、寂しいよう」と三回繰り返した。
レースが終わり、記者会見が開かれた。その場での舘氏の発言は、
「そりゃ、やっぱり、私が一番悔しいです。まあ完敗です」
「ウチがドジリすぎでしょう。いや、もちろんプジョーも強いですよ。ボクたちが情けなかった」
幾分、乾いた笑いを浮かべながら、言葉にならない言葉を発した。
その頃、プジョーを去り行くジャン・トッドは、ハンカチを取り出し、涙を拭いていた。あの知将ジャン・トッドが涙を! である。
やるからには勝つ。勝つためには徹底的にシステムを整える。冷たい司令官に見えたジャン・トッドが泣き、やさしい兄貴分である舘信秀は青ざめ、言葉をなくしていた。
~日本のシステムでも、いつかは勝てる~
TOYOTAには速さがあった。そしてピットには明るさがあった。
表面には現れないが、みんなで勝とうという僕ら日本人のよくわかる協調性があった。
しかし、トラブルが発生し、トラブルシュートに手間取り始めた時、誰がリーダーなのか見えにくくなった。
プジョーには一貫してリーダーが居た。
三張りの美しいテントの中で、トッドが24時間座るための、リクライニングの椅子があった。
エンジニア、メカニックはその指令の下、良い兵隊として、効率よく働き、3台を表彰台に送った。
プジョーの勝つスタイルは、全員の靴にまで現れていた。ソフトラバー・ソールの全員同じデッキシューズ。
ジャン・トッドの無線インカムには汗を吸い取るガーゼのカバーがついていた。
「馬鹿!そんなもんで勝てるんだったら、いつだってそうする」
と、いう声が聞こえる。
でも、舘さんは一人で白いバーベキュー用の椅子を持ってきて座っていた。そのチームが負けた。これも事実だ。
レースは決して戦争ではない。しかし勝利するための環境は必要である。
会議を綿密にやり、連絡を密に取って、会社の業務のように進めば勝てるものではない。
この敗北は日本型レースへのいい教材だった。
しかし、こうもいえる。
フランス式システムだって、絶対ではない。
和気あいあい、締めるところは締める、日本式民主主義だって捨てたものではない。
舘信秀氏は、めげず、休まず、次の目標に向かいレースのことを考え続けていただきたいし、社会も後押しすることを惜しんではならない。
恐竜に立ち向かう年月は、なるべく長く続いた方が、楽しみは大きい。
この項、了。
昨年はトムス40年記念本も書かせていただきました)
【補遺】
1993年はグループC最後の花道であり、FIAの規定変更にトムスは大いに翻弄された。世界を視野に入れたトムスGBだったが、トヨタの活動規模縮小などで、苦しい状況に。やがてトムスGBは1998年アウディに売却することになっていく。
また、あくまで事実関係だけを書いておくと、ケルンのTTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)はオベ・アンダーソン(故人)のカンパニーであったが、この年7月、トヨタの完全な子会社となった。やがてトヨタのル・マン活動は、TTEそして発展形であるTMGが担うことになっていく。