関谷正徳は、爽やかな空気を持っている。
陽だまりが良く似合う、健康的な笑顔。
その一方で、マシンを仕上げていくときのしつこさ。
作戦を進めていくときの思い切りの良さは、
さすが、ベテランであり、手堅い。
レースの怖さを十分知っている。
勝つためには、何かを捨てる。そんな潔さもある。
関谷正徳が、日本人ドライバーとして、初めて
ル・マン24時間レースで総合優勝したのは1995年である。
この年、筆者は関谷正徳に、ル・マンの前と優勝後、2回インタビューを敢行し、オートスポーツ誌に特集記事を書いた。
その稿を読み返しつつ、私ならではの秘話も紹介していきたい。
今回も、新たな書下ろしドキュメントである。
[プロローグ]静岡市松富のとある写真屋。
5月のある日、関谷正徳は、ル・マン24時間レースに出かける前、国際免許や、その他証明に使う写真を撮影するため、静岡県静岡市松富の運転免許センター前の小さな写真屋にやってきた。
95年の「関谷ル・マン・ストーリー」はここから始まる。
関谷は静岡市の山間部出身で御殿場に住居がある。ただ免許関係はここまで来なくてはいけなかった。
星野一義も静岡市安倍の出身で、星野の実家は、ここ松富から北へ4キロほど行ったところである。
関谷は、何でもない、古ぼけた写真屋にふらりと入った。
「パスポート用の写真、お願いできるだか」
「はい承知しました」
写真屋には老夫婦がおり、夫は行政書士をやっているらしく額がかかっている。
「行政書士 高桐事務所」
関谷は、老夫婦の顔を見て、あっと思った。
「もしかして、お宅に、レース関係の息子さんいませんか?」
「ええ次男がそんなことやっていますが」
「先日もお会いしました。お父さんですか?」
まさに、そこは私の実家であり、父と母を見れば、私の風貌が浮かぶのは当たり前で、関谷正徳さんも、びっくりしたことだろう。
筆者も3月23日、御殿場の関谷邸にお邪魔したばかりで、4月28日発売のオートスポーツに彼のインタビューを載せた直後であった。
ただ、彼が、わが実家で写真を撮ったという話は、ル・マンまで聞くことはなく、私は私で、忙しい日々を送っていた。
オートスポーツ6月1日号の記事では、関谷正徳の生い立ちから、レーシングドライバーとして、94年JTCCチャンピオンになり、95年はマクラーレンF1GTRでル・マンに出場するというストーリーまでを書いた。それをなぞる。
関谷の生い立ちは静岡の井川ダムのある山間部の出で、製材業から自転車業、やがて自動車業をやった父が亡くなり、兄を手伝うつもりで静岡マツダに就職する。
そこに片山義美がゲストで来たりして、先輩社員の白鳥哲次さんと「狂っちゃって」俺たちもレースをしてみようということになり、71年の富士に出るが雨で1周目にひっくり返っておしまい。
でもしつこくチャレンジしていると、西の方からギラギラしたオヤジと、ぎらぎらした男がやってくる。誰かと言えば「碧南マツダ」の田中梅夫とデビューしたての中島悟。彼らは勝ちに来ていた。
やがて関谷も77年富士でスーパーツーリングチャンピオンになるが、まだアマチュアであり、クルマのセールスを続けていた。
80年代に入って名前は出始めてはいたが、まだプロという意識はなく、トムスに入り、レイトンハウスのF3000に乗るようになって、ようやく自分はプロなんだなあと思うようになる。
関谷は「自分は速いぞ」という妄想型ではなく「自分は星野や中嶋にはなれない」現実的な視野を持った、現実思考型ドライバーと言えた。
それを劇的に変えたのはやはり舘さんだろう。
「トムスに入ったばかりの頃、デイトナ24時間へ行くぞ!って言われて驚いちゃって、いきなりアメリカだよ。トムスってすごいな~」そこから1年、また1年、トヨタのCカー作りに励み、1992年、ル・マンで日本人最高位の2位表彰台。93年には4位。そして95年はマクラーレンF1GTRに乗るのである。
それは1980年代にレイトンハウスに乗った当時レイトンハウスF1をハンドリングしていた安川実がマクラーレンインターナショナルに移り、日本・アジアのマーケティングを担当しており、彼の推薦もあり、実現したのである。
そういう状況の中で、関谷自身は自分をどう見ていたのか、彼の言葉を再現し、
彼の本質を語りたいと思う。
「レースというのは、ゼロからスタートする時、クルマを作っていくことが必要不可欠です。クルマを作る技術は、チームも高いレベルが必要だし、ドライバーも高いレベルでなくちゃならない。その意味では、グループCの開発とか、レイトンハウスF3000など、いろんな経験があります。自分はクルマを作り上げていくことのできる数少ないドライバーだと思っていますから、これは(自分の)セールスポイントだと思う。これがなかったら、自分くらいの速さを持ったドライバーはゴロゴロいる。だけどクルマを作って競争する世界じゃ負けないと思っている」
関谷はまさにクルマを作り上げることができるドライバーであり、ただ、がむしゃらに走るだけではない、クレバーな存在なのである。
そうしてル・マンに来てみれば優勝候補はポルシェか、ポルシェエンジンを搭載したマシンが最有力。
マクラーレンF1GTRはBPRシリーズで勝ってはいるが、24時間レースは初めてであり、未知数だった。ル・マンは初めて出るクルマが勝つということはない。だから注目されたが、絶対的有利という印象は車検場でもなかった。
マクラーレンは24号車25号車がガルフ・マクラーレン。49号車がWEST(FM)コンペティション。50号車がジャカルディ・マクラーレン。51号車がデレク・ベルと、ジャスティン親子が乗るハロッズ・マクラーレン(デパートのハロッズです)。
そして59号車がコクサイ・カイハツUKレーシングというエントリー名のマクラーレンで関谷正徳、ヤニック・ダルマス、JJ・レートが乗る。
車検場で関谷に逢った時、93年のトムスで来た時のような緊張感はなかった。
背中にTOYOTAや日本を背負わず、ドライバーとして雇われた一種の誇りが垣間見えた。
「いやー。来る前に、静岡のお父さんとお母さんに会いましたよ。あのー国際免許とか、ドライバーの登録の写真を撮ってもらうんで」
そんなような、立ち話をした。
「そうですか?いやー、それは奇遇だよね。へえー」
とか返事しながら、僕自身は、関谷選手がわが実家へ立ち寄った事件をそれほど心に留めなかった。ワークスを離れ、助っ人として来たル・マンで、関谷はどこまでやれるか。そのことの方が気になっていた。というか関谷はまだこのマクラーレンに乗っていない。その方が心配だった。

(1995年からは筆者もカメラを持ちコースに出た。Takagiritadashi)
関谷は落ち着いていた。マクラーレンに乗るドライバーの多くが顔見知りであり、ガルフ・マクラーレンに乗るピエール・アンリ・ラファネルに聞くと
「すごくいいクルマだ」という。
そして水曜日、初めてこの車に乗った。
「自分が考えている通りのクルマだった。あらゆることを考えて作ってある。振動しない。ギアがガラガラ言わない。つぎはぎがない。冷えないから、あとで穴をあけて、風を通すなんてことはない。ペダル類もアクセルペダルをバーンと踏んでも、踏んでいることを感じさせない。ブレーキを踏んでもふくらはぎが突っ張るようなこともない。クルマというものをシンプルに考えて作っていくとこうなる」と大絶賛。ただステアリングが遠いため、関谷のシートは作り直した。
マクラーレンF1GTRを作ったゴードン・マレーは、HONDAのバルコニーに来て、
筆者が日本から持ってきた「柿の種」を食いながら、ドライバーの質問に答えていた。 関谷も、どこかのタイミングで話したようで、
「クルマを作りたいと思ったら、こういうクルマになるね」というと「その通りだ」と彼が答え、「涼しい」というと「当たり前だ、24秒に一回空気が入れ替わる」とマーレーは答えたという。
予選ではいきなりラジエターホースが外れたが、それはすぐに直し、大きなトラブルではない。JJやダルマスのセッティングを見つつ、関谷も意見を言う。
タイム的にはJJが全マクラーレン・ドライバーの中では断トツのタイム。3分57秒18をマークして全体の13番手につけた。ちなみにダルマスのタイムは4分4秒91。関谷の予選タイムは4分6秒62。
これが遅いとか、どうとかいう問題ではない。JJは攻め込んでいき、ダルマスは2度の優勝を誇る優勝請負人として仕事に来た。関谷は92年ここで2位の実力者であり、三人はそういうバランスで集まっている。関谷は初めての車でこの速さ。これは凄いと思う。
2016年6月17日午後4時。ヤニック・ダルマスが100リッター満タンガソリンを積んでスタートしていった。ほぼ1時間して、豪雨もあり、レインに交換してダルマスが2スティント目に入った。スタート1時間後の順位は9位である。
そこからもう1時間した18時06分、ダルマスがピットイン。ここで関谷に交代する。まだ雨が降っている。タイヤはウエット。燃料ももちろん入れる。順位は相変わらず9位。かなり厳しいコンディションの中実戦が始まった。
でも関谷に破たんはない。丁寧に丁寧にマシンを進めていく。この時、このチームは、ドライバーに、一周のラップタイムを一切知らせていない。
自分が速いのか? 遅いのか? 大いに気になるところだが、「関谷さん、そのペースでいいですよ、十分です」と無線で言うだけで、4分08秒ですなどとは言わない。そういう細かいタイムを表示して、変なスケベ心を起こして、危険なアタックをさせないための配慮だった。
またクラッチが弱いから、ダブルクラッチでいたわっていくのは、最初からのチームの申し合わせであり、とにかく、英語でいうところの「ナーシング」(看護師のようにやさしく)で事を運んで行った。
19時09分。関谷はルーティーンのピットに入り、リアウイングを交換。さらに空調システムをちょっと整えてまたコースへ。19時の順位は5位だ。
20時33分関谷は帰ってきた。おおよそ2時間27分仕事をして、ここでJJ・レートにステアリングを託した。21時の順位も5位。
22時40分JJ・レートが2スティントを終えて、ここで第1ドライバーであるダルマスに交代した。いよいよ深夜の攻防。
23時の59号車の順位は、3位である。
気がつけばトップは49号車マクラーレン。2位は51号車ハロッズ・マクラーレン。マクラーレンの上位独占であった。
深夜ダルマスは1スティントして、23時46分関谷に代わった。
関谷もこの深夜は1スティントになり0時49分JJに交代。
JJはここから深夜の2スティントに入っていく。
深夜2時51分ダルマスに交代。ダルマスがここから2スティント。
そして早朝4時52分関谷が行く。
もうすっかりマクラーレンというクルマに慣れ、堂々と仕事をこなして朝7時、JJ・レートに交代して、しばらく仮眠をとった。ここでの順位は3位であった。8時。レートは2位に上がった。そしてダルマスに交代した9時ついにトップに躍り出たがまた抜き返されて2位。
午前10時56分。ここから関谷が行く。タイヤをカットスリックにするかレインで行くか、判断を迫られた。ダルマスの情報ではレインじゃなきゃ無理。と言っていたが、2位に落ちた原因がライバルのカットスリック使用だった。
関谷はカットスリックでコースイン。これが意外によく、ペースも上がった。
そして11時55分、ふたたびJJ・レートが乗った。JJはここから13時40分までドライブし続けて、ここでダルマスに交代。その時である。
トップだったハロッズ・マクラーレンがクラッチトラブルでなかなか再スタートできない。そこで逆転する59号車。ついに関谷チームがトップに立った。
「2位じゃ、一回経験しているんで、つまらない」そう言いたげな関谷の顔。
でも、レースは何があるかわからない。信用ならんというのも関谷の顔。
テレ朝リポーターの、岡本佳織が質問しても笑顔を見せるわけじゃない。
それでもダルマスがフィニッシュして、優勝が決まり、ついに表彰台の真ん中に立った時、関谷はやや遠慮気味に手をあげ、笑顔を見せた。

優勝者は、メディアセンターで記者会見に臨まなければならない。
その待ち時間におめでとうを言いに行くと、
「高桐さん。あの写真が幸運を呼び込んだと僕は思っているよ」
と関谷正徳は切り出した。なぜか静岡のわが実家で撮った免許写真。それがラッキー・チャームだと言った。うれしいことを言ってくれるもんだ。
後日のインタビューで関谷はまた、こんなことも言っていた。
「これを言うとくさいけど、小河の顔がオーバーラップしていました。葉子にも言うんだけど、小河が一緒にいたよって。だけど、これはわかんないんだ。現実なのか、まったく。」
ル・マンを走る時、いつも(亡き)小河等と一緒にいる。そういう関谷の気持ちが好きだ。
そしてル・マンの1週間後、仙台ハイランドで行われたGT選手権。
関谷は、マイケル・クルムと組んで、カストロール・スープラを初の優勝に導いた。
その時、ル・マンのドライバーであることを示す、白いIDブレスレットをいつまでも外さずつけていた。
「関谷さん、それにサインして頂戴!」と言うと、「駄目、これは次の鈴鹿まで外さない」
そして迎えた鈴鹿1000キロ。上野クリニックマクラーレンはなんと、またも優勝。関谷はル・マンから3連勝。ツキにツキまくったのであった。

(その表紙に、関谷さんのサインをもらった。これは家宝だ)
なぜかいつもツキに恵まれなかった男が、光輝いた。それが1995年。
やがて彼は、トヨタのヤングドライバーのよき教師としての道を歩み、
数多くの、国際的なドライバーを世に出すことになる。
いぶし銀の大ベテラン。クルマ作りでは「やかま爺」
関谷正徳はもっともっと世間から表彰されてよいと思う。