わが心のル・マン28年史 その21 1996年第五話「1996年のまとめと1997年へのつなぎ。ヨーロッパではGTのガチンコ勝負が始っていた。日本人は何を見ていたのか?」


ここまで1996年のル・マンを、急ぎ足で振り返ってきた。
それぞれ、感動があり、日本から遠征したドライバーの皆さん。
チームの皆様。メディアの皆様。テレ朝のみんな。
皆さんの努力に敬意を表する。

ただこのエッセイの1996年冒頭(その17)にも書いた通り、

1996年という年は、
「日本人が望んだ現状維持的な闘いの図式を、ポルシェがあっさりと
打ち破り、日本は置いていかれた年」だった。

日本で、マクラーレンF1GTRが「驚異の黒船」だと思われていた時、
ポルシェのノルベルト・ジンガ―は「打倒マクラーレン」を目標に、
まったく新しいポルシェGT1を急遽、開発してきた。

(ポルシェGT1 1996仕様の模型)


はっきり言って日本はのんきに構えすぎていた。
世界は、そんなに甘くないのである。

という、文章を私は書いた。

1995年、日本人として初めてル・マンウイナーが生まれた。
関谷正徳。そのストーリーは、このシリーズ(その14)に詳しく記した。

関谷はその前1992年ル・マンでもTOYOTAのグループCカーで
TS010で2位表彰台に乗った。(その7を参照)

1980年代後半からTOYOTAとNISSANはグループCカーも開発に躍起となって、
日本国内のJSPC(スポーツ・プロトタイプカー選手権)で火花を散らした。

その動機付けになったものはポルシェのCカーである956や962などを破り、
最後はル・マンを制することであったはずである。

たしかに国内のレースJSPCではポルシェの居場所がないほど
激戦になったが、この2社がCカーの開発をやめるとJSPCも続かなくなり、
日本はやがてJGTCの時代に入っていく。

関谷が優勝したマクラーレンF1-GTRというクルマは、
マクラーレンにいたデザイナーのゴードン・マレーが、
一切の妥協なく、最高のスポーツカーを作りたいと考え、
1989年、開発に取り掛かった。

1989年と言えばF1でマクラーレンはHONDAと組んでいた。
だからスポーツカーにもHONDAのエンジンが載っても良かったが、
HONDA側が興味を示さなかったようで、マーレーはBMWに相談し、
最終的にBMWのV12エンジンが載った。

ともかく真ん中に運転席があって、3人が乗れて、
妻と娘を乗せてドライブにも行けるし、サーキットで、
パパは軽くレースをして、帰りに買い物もできるクルマ。
なおかつ、車内の空気は24秒で入れ替わり、快適なクルマだった。

1995年、まさかと思ったマクラーレンが、凄い力を発揮してル・マンで勝ってしまった。

そして1996年郷和道は、日本のGT選手権にマクラーレンF1-GTRを登場させた。

この時のマクラーレンは性能をダウンさせられての出場だった。
なぜなら日本のGTはスカイラインやスープラが勝たないと
いけないシリーズだからだ。
マクラーレンは驚異の黒船だった。

では、こういうマシンでル・マンで勝たれた時、
ポルシェはどうしたのか?
答えはこうである。

責任者ノルベルト・ジンガ―は1995年のル・マン終了と同時に、
新しい車両の開発に入った。

すなわちマクラーレンを凌駕するスーパーGTマシンを作るのだと。

7月10日から開発を始めたジンガーは「そこからは休日はなかった」

家族とオーストリア旅行して娘がスケッチする横で、
コンピュータを開き作図した。

(ノルベルト・ジンガ―は夏休み返上で作図した)


11月、5分の1の風洞模型が完成。
翌年(1996)3月26日、実車が完成。テストが開始され、
マクラーレンを打ち破ることが可能な、
スーパースポーツカーが出来上がったのである。

この速さ、この徹底ぶり。
これが大きな自動車会社と、スポーツカー専門会社との違いだ。

GTカーには、ロードゴーイングバージョン(市販車)が必要であり、
当然売り物の車両も発表した。

(ル・マンにあった市販車ロードゴーイングGT1)
 TAKAGIRI TADASHI


いずれにせよマクラーレンF1-GTRも1億円を超える値段。

このポルシェGT1のレーシングカーは6千万円から9千万円くらい。
市販車となると1億を超えることになる。

余談だが、郷和道は、マクラーレンF1-GTRを購入したが、
デリバリーされた製品番号はF1 053である。

そして、1996年のル・マン24時間レースで優勝したのは、
ミケーレ・アルボレート、P・マルティニ、D・ゼイズがドライブした、
TWRポルシェだった。

このマシンはヨースト・レーシングからエントリーし、
トム・ウオーキンショウ・レーシング(TWR)がオペレーションしたポルシェであり、
いわゆる「屋根なし」のプロトタイプである。
シャシーはジャガーXJR14のモノコックを使ったもの。
設計はなんとロス・ブラウン。これが勝ち、
デビュー戦となった屋根ありクーペ型ポルシェGT1は2位と3位だった。

この屋根ありが良いのか?屋根なしの方が良いのか?
しばらくル・マンを解く方程式の、ひとつの課題となっていく。

(1997年はいよいよこれが勝つのか?)


マクラーレンF1-GTRは4位がやっと。
つまりジンガーの打倒マクラーレンは達成されたのである。

この時、日本人は何を見ていたのだろう。
ファンと共に応援すれば、何かが起きる。
そういう幻想だったのだろうか?

非常に良くない、日本人特有の、営業由来、販売由来のレース。
これをやってしまっていたような気がする。

市販車がたくさん売れてこその幸せを追及する
サラリーマン・レースでは、永遠にル・マンの女神は微笑まない。

ここは魂を試す場所なのだから。

さあ、めくるめく1997年へと飛んでいきましょう。

ヨースト。TWR。屋根あり、屋根なしはこれからの
キーワードになりますので覚えておいてください。


この項 了。