ル・マンで勝つためには、正しい戦略が不可欠だ。
しかし非情にも、戦略はたちまち破綻する。
スピン、もらい事故、セーフティーカー。
ほんの小さな傷からダムが決壊するように壊れる。
人間のミスで、思わぬ立ち往生だってある。
いくら戦略が正しくても、運がなければ勝てない。
走ってみないとわからないというのは、旧石器時代の考えだ。
しかし、
すべてを完璧に準備しても、
走ってみないと分からない、というのもまた事実なのである。
じっくり考えていれば解決するような場所ではない。
瞬時のうちに決断し、指令を飛ばし、とにかくクルマを走らせる。
連合艦隊の司令長官のような才能がリーダーには必要なのだ。
By T.Takagiri
さあ1993年である。
「TOYOTAが真剣にル・マンを取りに行った年」と言ってよい。
今回も、前編と後編に分けて、お届けする。
前編では92年からの流れと、大まかな説明、そしてレースのリポートなど。
後編は、当時のメディアに書いた「舘信秀ドキュメンタリー」を加筆修正する形で書きおろしていきたい。その理由は、日本人的レースの進め方とフランス人的レースの進め方の比較になると共に、良き歴史的資料になってほしいからだ。
また、今回から旧友である写真家の菊池一仁氏にも協力を仰ぎ、美しい写真を楽しんでいただけることになった。
文章も楽しんでいただきたいので、くどくど説明はしたくないが、時代背景だけは解説しなくてはならない。おつきあい下さい。
【1992年からの経緯】
92年のル・マンはFIAがスポーツカー世界選手権を強行して24台しかCカーを集められず、観客も10万人に激減。フランスでは地上波TV中継すらないという最低のイベントになってしまった。
主催する西部自動車クラブは、FIAと決別、93年は独自のルールでやることにした。3.5リッターのCカーは6台しか参加しないが、旧Cカー(ターボ)のクルマや、ル・マン・プロトタイプのクラス。そして94年以降を見据えたGTカー・クラスとバラエティに富む車両が50台以上エントリーして活気が戻った。
その中で、優勝候補は、やはり圧倒的に速い3.5リッターのCカー、TOYOTA TS010が3台、プジョー905の3台である。
TOYOTAは36号車が関谷正徳と鈴木利男。エディ・アーバインであった。
37号車がラファネル、アチソン、ウオーレス組。
38号車がリース、ラマース、ファンジオ組であった。

利男はニスモからトムスにお貸しする形で参加。
92年デイトナ24時間優勝者である。Photo Kikuchi
~TOYOTAの取り組み~
トヨタは93年の4月からモータースポーツ部長に桜井鎮哉氏が就任した。
前部長・斉藤氏が組織を地ならしし、桜井氏はその後任である。また、モータースポーツ部主査に就いた橋本俊幸氏が、テストから本番まで現場で眼を光らせることになった。
TS010は大幅な軽量化、エンジンは5%のパワーアップ。10%も可能だったが5%はトルクの方に回した。メンテナンスはトムスとトムスGB、そしてTRDがやる。
同じ山を登るのだが、三者三様のアプローチだと橋本氏は言っていた。
同じトヨタのカテゴリーⅡにはカーナンバー22「サードTOYOTA93CV」が出た。ドライバーはラッツェンバーガー、長坂尚樹、マウロ・マルティニ。
総監督は日本人としてはじめてル・マンに挑んだ先駆者加藤眞である。
もう一台はカーナンバー25「ニッソートラストTOYOTA」。ドライバーはフーシェ、アンドスカー、エリジュの3人であった。
~多彩なドライバーたち~
その他の日本人。まずはチェンバレンエンジニアリングのロータスに招聘された寺田陽次朗選手。14回目の出場である。

縁あってロータスエスプリに乗った。
Photo Kikuchi
クラージュ・ポルシェには吉川とみ子が乗る。また原田淳がコンラッド・ポルシェに乗る。
日本のチェッカー・モータースポーツがサポートし、太田哲也がドライブするフェラーリ348LM。エントリーはイギリスのシンプソン・レーシングである。
ただ太田は決勝朝のウオームアップでクラッシュし、スタートできなかった。
GTカテゴリーができて、たとえば46号車のポルシェ・ターボS-LM(いわゆる普通のポルシェの形)には、ハンス・シュタック、ワルター・ロール、ヘイウッドなど凄いメンバーが乗っている。
50号車のジャガーXJ220CにはF1デビュー前のデビッド・クルサードが乗っていた。
71号車のベンチュリ500LMにはF1のレジェンドドライバー、ジャック・ラフィーが乗る。
遅いクルマに、凄いドライバーが乗って、みんな頑張っていた。
~テレビ朝日の陣容~
テレビ朝日もこれで衛星中継7年目になる。松苗アナウンサーがチーフ格になり、解説は津々見友彦さんがメイン。高橋国光さんはゲストと言う立場でピットバルコニーのホスト兼解説。サポートは篠田潤子アナウンサー。
ピットレポートは粕谷俊二。私は取材協力と言う名の構成、及び何でも屋である。
車載カメラはトヨタ2台、プジョー2台に載せられた。車載カメラは前後左右上下に動く。
ブックレットがお土産となるがこの頃は自作以外なかった。
Photo Takagiri
~決勝はいきなりデッドヒートに~
グリッドはポールが2号車プジョーで、アリオーが第一走者。
2番手が36号車トヨタTS010でアーバインが乗りこむ。
3番手が1号車プジョーで、ブーツェンが第一走者。
4番手が37号車トヨタTS010。リースが乗りこむ。
気温は30度。肌を焦がすような青空である。
スタートが切られると2号車アリオーのプジョーは飛ばした。
それにぴたりと付くのが、アーバインの36号車トヨタ。
いきなり熾烈極まりないデッドヒートになっていく。
6周目のミュルサンヌコーナーで、フィリップ・アリオーがブレーキングをミスして、やや大回りした。
すかさずアーバインが小さく回り、トップに立つ。
スタートして30分のことであった。
1時間経過の順位は1位が36トヨタ。2位2号車プジョー。 3位1号車プジョー。4位37号車トヨタ。5位38号車トヨタ。
こうしてみると堂々の戦いである。24時間後が本当に楽しみだった。

Photo Kikuchi
~遅れはじめたTOYOTA~
1時間後の記録では36号車トヨタTS010がトップ。ドライバーは関谷、鈴木、アーバインであるが3人のレース国籍は日本になっていた。
アーバインは日本でレースしていたから日本人なのか?まあよしとしよう。
2時間後の記録は2号車のアリオー組のプジョーがトップ。2位が36号車、その差は28秒。なにせピットインで順位も変わる。差はゼロと言って良い。
ただ16時24分、いきなりTOYOTAが遅れをとり始めた。
さっきピットアウトしたばかりの37号車ラファネルの010が帰ってきた。
緊急ピットインだ。
ミスファイアを起こし、ここでECUを交換。45分後ピットアウト。これで37号車は16位に落ちた。
37号車は、19時18分また帰ってきた。
ハーネスの取替え。オルタネーターの交換。20時23分ピットアウト。
これで4時間後には24位まで落ちていく
(以上ピットでAD作業しながら記したメモより)
~プジョーにもトラブルが~
トップを快走していた2号車、アリオーのプジョーにもトラブルが発生した。
19時01分コースに出たが、14分にピットイン。
後方から白煙が上がりオイルを吹いた。オイルパイプの亀裂で、コース上にオイルをぶちまけた。
そのため36号車関谷も、ウインドスクリーンにオイルをかぶって緊急ピットイン。少々タイムロス。ピットはごった返し、戦場のようになった。
夜8時、スタートから4時間。
トップはリース組38トヨタ。2位はダルマス組1号車プジョー。3位3号車プジョー。4位が36号車トヨタ。
2号車プジョーは15位。37号車トヨタが24位。
それからは、1号車プジョーと、38号車トヨタが、ピットインのたびに交互にトップに立つ。
46号車ワークスポルシェ、シュタック組は7時間後に奇しくもポルシェコーナーでクラッシュしリタイヤ。レジェンドたちが消えていった。
プジョー対TOYOTAは3台×3台から、2台同士の戦いになっていく。
僕は夕方、ジャン・トッドにインタビューを申し込んだ。
旧知だから日本のメディアでも引き受けてくれた。
粕谷リポーターが質問した。トッドは答えたが、ストレートの轟音で何を言ったのか良くわからない。
ただ手にはストップウオッチを二つ持って相変わらず器用なところを見せていた。
~閑話休題~
あの日は暑かった。僕は耳にヘッドセットをつけてピットロードを歩き、インタビューする人の選別や依頼をし、他にも事前に中継車に情報を入れていた。
暑いので、耳の周りは汗をかき、6時間後の日没時に見ると、ヘッドセットは塩で白かった。
ル・マンの生中継は、東京で放送中のTVサウンドも同時に聞くことになる。
これを専門的には「ダーティ」というが、例えば、僕の耳にはこういう音が聞こえているのである。
『夏のケンタッキー祭り。めがねドラッグいい眼鏡。お味噌ならハナマルキ!
疲れたときはQPコーワゴールド!はいそろそろル・マンに戻ります、放送席、5秒前、4秒前、3秒前、2秒前』
~今度はアクシデント~
暗くなって、トヨタにまた不幸が襲う。38号車ファンジオがブレーキング時にロータスに追突されリアウイング、アンダーパネルを交換。これで一気に11週遅れの10番手に落ちた。
1位はダルマス組①のプジョー。2位はブラバム組③のプジョー、3位が関谷のトヨタであった。
この36号車トヨタも、ピットインのたびにバッテリー交換。流れはプジョーに傾いていった。
TOYOTAのピットには、入ってすぐ、コンピュータルームがある。
ここにはメディアは入れない。もちろんTVメディアも。
情報が取れない。どうなっているのかは推測するか、やや遅れて出る広報資料を見るしかない。
監督は鮒子田寛氏だという。確かにそうだが、ピットウオールには居なくて、たえず動き回り、トラブルが起ればクルマにつき、トラブルシュートの指示をする。
およそレースの戦略オペレーションとは違う動きだ。
あれほど自信を見せていたトヨタTS010とチームだったが、破綻を見せた。
37号車ラファネル組は10時間後深夜2時、とうとうトランスミッション交換。33分を失う。最終的に16時間後、(朝があけて)ウオーレスがドライブ中にダンロップ・ブリッジ下でストップし、リタイヤとなる。

Photo Kikuchi
この深夜には吉川とみ子のクラージュ・ポルシェがタイヤバーストからスピンで、リタイヤに追い込まれている。
また寺田陽次朗のロータスエスプリもエンジンブロウで10時間後リタイヤ。
日曜正午、関谷の36号車もスロウ走行。ミッション交換が必要となり、36分を失う。もはやTOYOTAの総合優勝は望めない。
午後1時、リース組の38号車もミッション交換が必要、49分を失う。
一方を見れば、深夜にトップだったブーツェンの1号車プジョーが異音を察知した。
それはエキゾウストパイプの亀裂であったが、交換には、たった5分を要しただけである。
その速さが、フランスチームの勝利の要因であった。
ただ、この5分間でトップには3号車プジョーが立ち、そのまま8時間後のゴールまで突っ走ることになった。

Photo Kikuchi
レースは終わった。
プジョーの3台が1位2位3位。トヨタはトップから11週遅れの4位。
3台共にミッション交換を強いられた。
グループCカー最後のル・マンということになり、010は博物館行きとなった。
5位にはサードレーシングのTOYOTA93CV 6位にはトラストレーシングのTOYOTA93CVが入り、カテゴリー2のワンツーを果たした。これは立派だった。
TOYOTAは、多大な開発努力をしてきた。
車両の全面的なブラッシュアップとディベッロプメント。
組織の刷新。
富士やポールリカールでもの凄いマイルのテスト。
戦略を練り、完璧な準備でル・マンに来た。
それでも勝てなかった真の原因は何か?
その説明は今も聞いたことがない。
この項、了。
後編は、雑誌メディアなどに書いたドキュメントの、加筆修正バージョンです。
お楽しみに!
~蛇足~
1993年元旦のパリ、零下10度の中、パリダカのスタート中継をした。
フィリップ・アリオーに新年おめでとう!を言った。
時代としては、アメリカでクリントン大統領就任。
6月に入って、皇太子ご成婚。パレードがあった年でもある。
ル・マンへ行く前に我が家でバーベキュー。クニさんもご来臨。
今は亡き逸見政孝さんを囲むゴルフ大会をやり、14日のANAでル・マンに飛んだ。相変わらず、多忙な日々が続いていた。