ル・マンは伝説への、夢の入口。
ひとたび足を踏み入れれば、100年の歴史が、
あなたを包み込む。
食事するテーブルの向こうに、
ジャッキー・イクスのような伝説のドライバーが微笑み、
博物館には、歴代のレーシングカーが、存在感を見せる。
決勝レースの夜、テントで、恋人達が愛を語らい、
夢にまどろめば、空高くエキゾウスト・ノートがつき抜け
「ああ、あのマシンはまだ頑張っている」と解るのだ。
こんなにも濃厚で、官能的で、エキサイティングな夜はない。
モーター・レーシングのファンで良かったと思うのだ。
1991年。第59回ル・マン24時間レースで、ついに日本のMAZDAが総合優勝を果たした。
このエッセイでは、2回に分けて1991年を振り返る。
2回に分ける理由はMAZDAの優勝は、まことに素晴らしく、私自身TVドキュメンタリーも作ったし、雑誌にも渾身の記事を書いた。
次のエッセイ(その6)には、それらの記事を抜粋(再編集)して掲載するつもりだが、記事の主役はあくまでMAZDAであり、当然ながら他がどうなっていたかは、あまり書いてない。
したがって、まずはイントロダクションとして「あー、そんなこともあったね」という備忘録のようなものを用意して、1991年全体を見回してから、ル・マンの風景に入って行きたいのである。

~年末年始から多忙なスタート~
1990年から91年にかけての日記をひも解くと、忙しさは相変わらずだった。
90年暮れは、ADVANサウンドコックピット年末進行。
テレ朝「ビッグスポーツ」テレ朝「F3特別テレビ番組」
フジテレビ「F1ポールポジション」
テレ朝「モータースポーツイヤー台本」
朝日放送「ファラオラリー」
フジテレビの「F1総集編(5時間)」と「城達也さんナレーション入れ」。
12月26日にパリに行き、「パリ~ダカ取材」
31日に帰国して元日からテレ朝でパリダカの番組作りに入った。
そんな状態で新年を迎えながら「青い目の自閉症児シリーズ」という社会派ドキュメンタリーも手がけ、「ワールドカップスキー」をフジテレビが始めたのでこれにも関わった。F3000のレースも盛んでCABINインターナショナルフォーミュラの構成もしている。さすがに4年通ったモナコグランプリには行けなかったが、それでもやりくり算段して、5月29日からカナダ・グランプリ出かけ、現場からF1ポールポジション(番組)の生中継とレースの生放送をやった。

91年F1カナダはトップを行っていたマンセルがヘアピンを出たところでストップしパトレーゼが優勝したレースで、私はピットで原因を取材。
マンセルがキルスイッチを切ってしまって、ストップしたというわけだった。
また、ロータスにスポットを当てた取材をし、ジョニー・ハーバートとミカ・ハッキネンがまだ若く、頑張っていた。
そのジョニーがル・マンのヒーローになるなんて、僕は想像すら出来ないでいた。
カナダを終わって、希望者はニューヨークへ移動して一泊。5番街のフランス料理店で晩餐。まったくバブルそのものであった。
カナダから帰国した10日後、今度はエール・フランスAF275便に乗る。
ル・マンへ出発するのである。機種はボーイング747ジャンボ。
次第に喫煙席がなくなり一部のギャレー近くが喫煙場所になり、そこで吸った。今は煙草をやめてしまったから、まさしく昔の思い出。
飛行機には高橋国光さんも乗っている、今回のゲストである。
相席にはテレ朝の新入社員だった長嶋三奈さんが座った。クニさんは三奈さんが誰の娘なのか知らずにお話して、降りる頃に分かり、焦っていた(笑)。
クニさんが乗っていて、津々見友彦さんがいる。今回から解説は津々見さんになり、熊谷睦氏はテレ朝のスタジオ解説と相成った。
そしてル・マンには、新築された大きなコントロールセンターとピットビルディングができた。まさに1991年はル・マン新装開店元年である。
したがって、二階部分にはバルコンといって、窓で仕切られているが、ピットが見える部屋があり、テレ朝はここも借りて、「徹子の部屋」じゃないけれど、ここにドライバーを呼んで話を聞くスペースを作った。そのホストが高橋国光さんで、私はここでも、番組作りに加わった。

車検から去年の王者メルセデスC11をチェック。1号車のミラーはオレンジ。
2号車はライム色。31号車は黄色。32号車は白。という様に取材ノートに書き込んでいく。
この年、TOYOTAやNISSANはル・マンにはいない。
なぜならFIAがスポーツカー世界選手権は3.5リッターNAエンジンでやるという方針を曲げず、それに同調できなかったからである。その兆候は1992年も続くのだが、ひとまず1991年は38台でスタートを切ることができた。
ジャガーも一応3.5リッターのHBエンジン搭載のXJR-14を持って来て、予選で2番手タイムをマークはしたが、決勝を走る気がなく(ル・マン用ヘッドライトの準備すらなし)出なかった。

~日本人、日本チームは前年に比べ、著しく減った~
マツダは寺田陽次郎,従野孝司の二人。またチームFEDECOとして初めて出場した見崎清志、横嶋久、長坂尚樹の3人。出走したドライバーはこの5人だけ。
日本関連で言えばNISSEKIトラストポルシェ。
高須クリニック(クーラージュ)ポルシェ。
ケンウッド(クレマー)ポルシェ。
他にデービー・ポルシェの池谷勝則と、ユーロレーシングのスパイスフェラーリは予選落ちし、粕谷俊二も走れなかった。
予選は一応に低調だった。水曜と木曜の夜は路面がウエットで、ドライのアタックができなかった。しかも1番から10番までのグリッドは3.5リッターマシンに与えられるという決まりで、メルセデスC11などの速いクルマは11番手のポジションを争うことになる。ちょっと情けない。
初日ジャガーのXJR-14がトップで、3分37秒111というタイムをマーク。カーナンバー1のメルセデスは46秒と低調。
~ミハエル・シューマッハ登場~
この初日19番手につけたメルセデスC11には、無名のミハエル・シューマッハがいた。ミハエルは心拍計をつけて走ったが「ストレートで95、思ったより低かったね。リラックスした時は48から50。トレーニング中は150だよ」と語っていた。
木曜日の予選は水曜よりもコンディションがよく、カーナンバー1のメルセデスC11が31秒270でトップタイム。ジャガーのXJR-14も31秒912で2番手。3.5リッターのプジョー905が3番手で、これがポールポジションである。55号車マツダは12番手タイムだった。
テレ朝中継班の忙しさに変わりはないが、この季節「アスペルジュ・ブラン」(白アスパラ)が旬であり、新しいスポーツ局長は、主要メンバーをアスパラガス・レストランに招待してくれた。
茹でた白アスパラに、特性のマヨネーズソース。素晴らしいヨーロッパの初夏の味覚である。

(こうした余裕のある現場、本当に少なくなりました)
さて、ル・マンは自動車競走であるけれども、文化でもある。
ピットビルの裏はパドックだが、ダンロップブリッジの方に向かっては、ホスピタリティと、ショップのエリアが広がっている。
そのエリアの最大のものはレストラン。と言っても、ル・マンにやってきたチームや、団体が借りパーティーを催しランチをご馳走するレストランである。
MAZDAは例年、ここでランチ・パーティーを主催し、すっかりル・マンのソサエティに溶け込んでいる。
今は亡き大橋孝至さんのお骨折りもありVIPも大勢来ていた。ACOの当時の会長グルメス氏、ジャッキー・イクスはもちろん、故ポール・フレールさんも常連だった。
我々、日本でこんなランチ・パーティーをやると、誰を呼んだか呼ばないで妙にもめる。ル・マンのパーティーは確かにVIPもいるが、地元のおばちゃんみたいな人も召し上がっている。鷹揚にいきたいものですね。
レストランの隣りは、ミニカーショップであったり、土産物ショップであったり、楽しい買い物ゾーンである。
一番プレステイジが高いのは、エルメス。
多くの人がエルメスの今年のル・マンをモチーフにしたネクタイやスカーフをお買い上げになる。私は前に24とプリントされたネクタイを購入したがそれ以来余り買わない。高いものね。
そのかわりオフィシャルTシャツは毎年買ってコレクションにしている。
取材もこなし、金曜日はそうしたお買い物に当て英気を養って、いよいよ土曜日の決勝を迎える。
さあ、次回はMAZDA優勝までのドキュメントを発表します。
お楽しみに。
了