鳥が激しく鳴いて、松林を渡っていく。
迷い雲が切れ、陽光が降り注ぐ。
その光を、レーシングカーが跳ね返し、わが目を射る。
ここはル・マン。
夢と狂気、栄光と挫折、天使と悪魔が同居する場所。
24時間レースは1923年に始まり、
今、60回の記念大会を迎えた。
ル・マンは自動車の長距離レースであり、オリンピック。
華やかな社交と、サプライズがあり、
伝説の夢に身をゆだねることが出来る別天地。
16万人を越える観客たちにとっては、スピードに酔う楽園。
24時間を走るドライバーにとっては、命をかけた戦場。
底知れない魅力と恐怖。大いなる非情と矛盾。
ル・マンが、人々を引きつけてやまないのは、
究極の自動車レースが織り成す、混沌と興奮なのである。
By T..Takagiri

~TOYOTAの本気~
1992年は、ル・マン挑戦7年目となるTOYOTAにとって、非常に記念すべき年となった。
グループCの新規定(SWC)にあわせた車両TS010が誕生し、それによりル・マン優勝に大きく近づいた、もしかすれば勝てたかも知れない年だった。
当初は1991年のスポーツカー選手権(SWC)にも出るべく、車両の開発を進めたが、開発チームの意志がひとつではなく、戦闘力のあるクルマが誕生しなかった。また国内のCカーレースは1992年、ターボのレギュレーションで行われ、FIAが進めているSWCとは別の道を歩いていた。
一方、1990年トヨタのモータ-スポーツ部長に就任した齋藤治彦氏は、その年5月にイギリス人デザイナー、トニー・サウスゲートにテクニカル・アドバイザーを依頼、新車両の構想をスタートさせた。
1991年は準備の年、1992年から勝負に出ようという段取りだった。
1991年夏、TS010は完成し、1991年10月27日のSWC最終戦オートポリス(日本)でデビューした。
このレース、覚えている方は少ないかもしれないが、優勝はミハエル・シューマッハと、カール・ベンドリンガー組のメルセデスC291である。2位と3位がシルク・カットジャガー。4位がプジョー905。5位がまたメルセデスで、トヨタTS010はデビュー6位と健闘した。齋藤部長いわく「まだ150キロくらいしか走っておらず、あくまでも92年に向けての準備」というコメントだった。
1992年が明けて、4月26日にFIAの世界スポーツカー選手権(SWC)
第1戦モンツァ500キロレースが行われた。
エントリーはわずか12台。
レースはプジョー2台がリード。3位、4位がトヨタ7号車と8号車。
7号車トヨタがプジョーを抜いて2位浮上。しかし3番手に上がったラマーズ組のトヨタ8号車はクラッシュしリタイヤ。
終盤プジョーの2号車がエンジントラブルでリタイヤ。
残り2周、優勝目前の1号車プジョーがスピンしてひっくり返ってしまう。ヤニック・ダルマスは無事だったが、これで2位に落ちた。
優勝はジェフ・リースと小河等組のTOYOTA TS010。
小河は日本人として始めて世界選手権SWCの優勝を果たした。
もちろんル・マン24時間レースでも活躍が大いに期待できる戦力であり、このあと、ル・マンのためのロングランテストをこなして、運命の帰国を果たすのである。

~しかし悲劇がトムスを襲った~
あの日私は、鈴鹿サーキットのグリッドで、小河等選手を見ていた。
「小河ちゃん、走るんだ。へえー、スポット参戦したんだ」
1992年5月24日。6万人の観客が入った全日本F3000選手権シリーズ第4戦。フルグリッド、26台の10番手に小河がいた。
レースが始まるとスタートでアーバインがストールして混乱、追突が起きた。
ポールはロス・チーバー、2位はバイドラー。
バイドラーがチーバーを抜きトップに立つ。
後方で4番手争いが熾烈となり、27周目、1コーナーで小河が、減速した前のクルマに乗り上げ、目の前から消えた。
前車と小河のマシンはもつれるように宙を飛び、1コーナーの先に落ちた。
オフィシャルが手でバツ印を示す。直ちに赤旗が出てレース中断。26周で打ち切りとなり、小河は病院へと運ばれていった。
重たい気持ちで、クルマで東京に向かった、当時にしては珍しく携帯電話を持っており、東名高速で電話が鳴った。知り合いのカメラマンからだった。
「小河選手の死亡が確認されたそうです」
なんともいえない悲しい気持ちで帰ったことを思い出す。あの笑顔に会うことはもう叶わないのだ。
小河選手の突然の死は、トムスの舘信秀監督にとっても、関谷正徳選手にとってもショックな出来事であり、関谷夫人の葉子さんにとっても涙も枯れはてる出来事だった。
でもル・マンの日時は迫っている。準備しなくてはならない。
いまさらながら思うが、トムス、及びトヨタの関係者の心痛は、大変なものであっただろう。でも悲しみを表には出さず「トヨタとして優勝を狙う責任や使命」について、車検で語る関谷正徳のけなげな姿勢は私の心に響いた。
私は私で、今までにないスケジュールでル・マン入りした。
これは本筋ではないので、ル・マンのお話を終えてから、書こうと思う。
~この年のル・マンは寂しいものだった~
ル・マンに到着して驚いたのはエントリーの少なさであった。申し込みは30台。実際にスタートしたのは28台。やはり3.5リッターNAの新規定が響いたのか? メーカーとしてはプジョーとトヨタとマツダくらいで、あとはプライベート参加のレーシングチームである。
メディアセンターもFIA色になり、前年までブレーキ会社にいた青年がFIAに就職し、急にふんぞり返っているのを見ると「人間、権力を持つと態度が変わるなあ」という感想であった。
ジャン・トッドは、プジョー905を3台エントリーさせた。が、驚いてはいけない。それぞれ予選用の車両を用意し計6台のマシンを並べた。
これがジャン・トッド流であり、戦争でも始めるのかと思うような体制を取るのは、パリ~ダカ時代からの、彼のやり方である。
トヨタはTS010を3台。台数はプジョーと同じだが、スペアの予選カーは1台のみで、これを使いまわしたという。(私は当時そこまで取材できず、この件は確証に乏しい)
その一方でトヨタはターボ車を2台。
すなわちサード・トヨタ92CVとトラスト・トヨタ92CVの2台も用意し、都合5台のエントリーだ。
サード・トヨタには、94年にF1で命を落すラッツェンバーガーも乗る。他にE・エルジュとアーバイン。皆、仲が良かった。
~MAZDAも意欲作を持ってきた~
さて1991年に総合優勝を飾ったマツダは意欲的な作品を登場させた。
ロータリーエンジンではなくSWCの規定にあわせた3・5リッターV10エンジンを積んだMXR01であった。
設計はナイジェル・ストラウド。TWR(トム・ウオーキンショー・レーシング)でカーボンによる車体製作をし、フランスのオレカがメンテナンス。統括をマツダスピードが行うという国際的なデレゲーションに変貌。
ピュアなマツダマンに言わせると「借り物です」と謙遜するが、これもなかなか格好の良いCカーであった。

エントリーは5号車「レナウン・マツダ」ドライバーは、バイドラー、ガショー、ハーバートという前年優勝トリオ。
6号車「鹿島マツダ」には、サラ、従野、寺田の3人が乗った。
他の日本人関係はカーナンバー4ローラ・ジャッドに、粕谷俊二、松田秀士。
もう1人はフレンツェンだった。(彼は日曜朝のウオームアップトップタイム)
スパイスフォードには原田淳、嶋村健太、吉川とみ子が乗る。
さて予選は2号車アリオーのプジョーがポールポジション。
2番手はヤニック・ダルマスのプジョー。
3番手がジェフ・リースの7号車デンソー・トヨタ。
4番手がヤン・ラマーズの8号車ZENTトヨタ。
5番手がラファネルの33号車カシオトヨタで、これに関谷正徳が乗る。
急きょ契約し、乗ることになった片山右京は8号車に振り分けられた。
ところで、舘信秀率いるトムスは、日本のエンジン、日本のシャシー、日本のコンピュータで世界に日の丸を揚げるべく、イギリス、ノーフォーク州に、
トムスGBを設立。
この1992年はまさにチャレンジングな年であり、トヨタが開発したTS010をトムスGBが借り受ける形で、オペレーションを行った。
ともかくレースは、「フランスの雄プジョーか、日本の巨人TOYOTAか?
去年の覇者MAZDAか?」
台数は少ないが緊迫したレースになっていく。
~低い路面温度でTOYOTAが苦しむ~
1992年6月20日土曜日。曇り、寒かった。気温は13度。
午前9時頃から雨が降りはじめた。11時ウオームアップ開始。
13時やや小雨。16時、雨の中、ローリングを終え、本スタートが切られた。
2号車アリオーのプジョー、1号車ダルマスのプジョーが先行。リースのTOYOTAが追う。ライトはつけっぱなし。ユーノディエールは水煙で見えない。
2周目に入るとMAZDAのバイドラーが前のプジョーを抜き6位。さらの33号車TOYOTAを抜き、8号車も抜いて4位に浮上してきた。
濡れた路面でめちゃくちゃ速いバイドラーは、3周目に3位に上がりプジョーを追う。そして4周目2位。目先のアリオーを攻め立てる。
6周目MAZDAがトップに立つ。がプジョーがまた抜き返す。7周目コントロールラインではまたMAZDAがトップ。
去年の勝者は絶対的な自信を持ちル・マンに君臨し始めた。
そして16時51分このMAZDAがピットイン。
1時間終了時点のトップはこのMAZDAであり、2位は①プジョー、3位が②プジョー。
トヨタ勢はやや遅れた。原因はル・マンの雨を良くわかっているミシュランを穿くプジョーとMAZDAに対して、TOYOTAはグッドイヤーの浅溝を使っていたからであった。
~アクシデント発生~
そして最初の事件は17時30分頃発生した。
テルトル・ルージュの手前で、遅いクルマに行く手を阻まれた7号車TOYOTAのジェフ・リースが急減速した。
そこに31号車プジョーが追突。グリーンに押し出されフロント、リアにダメージを受けた。プジョーも左フロント大破。フロントのウインドスクリーンもこなごなに割れた。
これで7号車は一気にポジションを落とし修理に入った。
なにより、このTS010はフロントにラジエターがあり、それも取り外すなど、大掛かりな作業になった。
この2台のマシンは徐々に優勝争いから脱落していく。
一方、18時30分に、5号車MAZDAはバイドラーからハーバートに交代したが、シートベルトが外れなくて時間がかかりプジョーが先行した。
この瞬間からプジョーがトップ、2位マツダの関係が定着した。
そしてほぼ同時に7号車TOYOTAの修理が終わり、ブラバムのドライブでコースへ向かった。
ところが19時33分、このブラバムがインディアナポリスコーナーでクラッシュ。マシンはまたボロボロになった。
片山右京は、決勝でこのマシンには乗っていない。右京はじっと待つのみとなってしまう。
夜に入っても雨は続いた。先のTS010の7号車は朝方リタイヤ。31号車のプジョー905もリタイヤした。両方ともエンジンが原因だった。
寺田陽次朗にも残念な時間が訪れた。午前2時25分ポルシェコーナーでコースアウト。リタイヤとなってしまう。寺田はショックを隠せない。
プジョーの1号車、2号車も決して磐石ではない。電気系統やスピンなどいろいろあるが、それでも朝9時には1位と2位。
プジョー1号車と、3位にあがったTOYOTA33号車との差は5周あった。

~つまらないトラブルでMAZDAが遅れた~
MAZDAの5号車が遅れたのはウインドスクリーンが曇り始め、スクリーンを取替え、デフロスターの調整をしたロスタイムである。朝9時で見ると、MAZDAは4位にいた。
さあここからが正念場。
5号車MAZDAはシフトレバー、ハブ・ベアリング、ラジエターホースと次々にトラブルが襲う。
アリオーの2号車プジョーは17時間目にコースアウト。パワステのポンプが壊れたようだ。またアクセルリンケージも不調で、コースアウトもした。
1号車プジョーも変圧器の故障で危ない状態に入ったが、1位の座を捨てることはなかった。
2号車とMAZDAの後退で、2位に上がってきたのは33号車カシオTOYOTA TS010だった。
15時間経過の朝7時からは「プジョー対TOYOTA」の形になった。
ただ、その差は5ラップ。68キロメートルほどプジョーが先行した。
日曜日のお昼、1位プジョーとTOYOTAの差は8ラップまで広がった。
最終的に6ラップまで差を詰めたものの、プジョーは念願の優勝を飾り、TOYOTAは、残念な2位でレースを終えることになった。
ゴールでは、関谷葉子夫人が、小河等の遺影を持って涙、涙。オイオイと泣いていた。
日本人として最高の位置、2位表彰台に上がった関谷の腕にも小河の遺影があった。
国歌はラ・マルセイエーズだったが、日の丸が、(屋上に立ててあった1本を外してきた)2位のポールに掲げられた。関谷と一緒に登ったのはピエール・アンリ・ラファネルとケネス・アチソンだった。
そこにいるはずだった、走るはずだった小河を亡くし、絶望的な気分で始まった92年ル・マン。関谷は使命を果たした。
関谷は言う「信じてくれなくても良いけれど、僕は小河と走っていた。いつもそばにいた」
この関谷の思いは、翌年も、また総合優勝を飾る1995年も続いていくのであった。
~空飛ぶ放送作家~
この年、私は長さ1メートルを越える飛行機のチケットのつづりを持ち、6月14日に成田を出発した。
ル・マンの7日間を終え、パリに戻ってコンコルド・ラファイエットに宿泊。
翌日ロンドンへ入り、シルバーストンに入った。
F1シルバーストンテストの取材であった。
それが終わるとロンドンで編集。
日曜日、ロンドンからポールポジションの生中継。
再びパリに戻り、フランスのベアリッツというところまで飛んで、スペインのサン・セバスチャンに入った。
1992年はフジテレビが記念すべき「ツール・ド・フランス」の中継を開始し、初日から、中継放送をする。その取材と台本書きのためである。
ツールは、第2ステージ、ボルドーまでつきあい、ふたたびイギリスに戻って、ポールポジションのため、ドニントンで中嶋悟氏と津川哲夫氏のロケ。
そしてイギリスグランプリ(シルバーストン)を中継し帰国。
まるまる1ヶ月の出張だったが、往きの航空券はテレビ朝日、途中からの航空券はフジテレビが持つという、なんだかもの凄い旅だった。
空飛ぶ放送作家の面目躍如といったところだが、今から思えば随分家庭を犠牲にして、迷惑をかけたと反省している。
(了)