わが心のル・マン28年史 その2 1988年


 この世は欲望の海かもしれない。
 儲けたい。お金持ちになりたい。
いい女と結婚したい。いい家に住みたい。
勝負事に勝ちたい。いつも裕福でいたい。

 ル・マンは、究極の欲望の場所に思えてくる。
 スポンサーは大枚をはたき、チームは最高の準備をし、
ドライバーは生死を賭けて24時間走りぬく。
そのかたわらで、怪しげな見世物小屋に入り、
目先の欲望に走り泥酔する若者たち。

 ル・マンに来ると、いつも感じる。
「お前は正しく生きているか?」
という天からの声が聞こえるのだ。
「正しく生きて、正しく前進しているか?」
夜のマシン音を聞きながら、時には涙を流すほど、
深く、深く、自分のあり方を問い直す。
ここは人間の魂を試す場所。人生の道場なのである。


~多忙だった1988年~

 1988年(昭和63年)は、お正月から忙しかった。
ドキュメンタリー番組「青い目の自閉症児シリーズ」制作に始まり、ミノルタ・カメラのプロモーション映像イベントをやり、2月にはパリダカの映像を編集し、フジテレビの6スタ(最大のスタジオ)を使って、朝までの生特番をやり、次いでF1シーズン開幕に向けての準備に終われる中、3月終わりからケニアのサファリ・ラリーの取材に入った。

サファリ・ラリーはまったく別世界で、別腹的な刺激を受け、大いに楽しかったが、帰国するとすぐに、再び自費でモナコグランプリへ出かけていった。
そんなありさまで、海外へ行ってばかりの半年が過ぎてしまった。

 ではル・マンはどうするのか?

 私自身はもう一度自費で出かけ、雑誌の記事でも書くつもりだったが、テレビ朝日のKディレクターから「国内に残って、東京の<受け>をやってくれないか?」という打診があり、他にもフジテレビのAUTO倶楽部という番組も持っている関係上、あまり海外ばかり行くのは好ましくなく、6月11日12日のル・マンは、東京・六本木のテレビ朝日で番組をまとめる仕事をした。

 テレビ朝日は、系列局のディレクターも含めた、40人近くが海を渡り現場に行くのだが、東京で番組を作るスタッフやアナウンサーは、まだル・マンを知らない。だから1回でも見たことがある放送作家の私は、格好の助っ人だったのである。

 その代わりと言っては何だが、知り合いの大石吾朗さんをピットリポーターに推薦して、大石さんが現場に入り、ビル大友氏と共にピット情報を伝えてくれた。

 (1988年のル・マンは東京で番組構成)


~ジャガー対ポルシェの戦い~

この年1988年は、去年WSPCのチャンピオンになったジャガーが、5台のエントリーで必勝体制を組んできた。
迎え撃つのはシェル石油とダンロップのスポンサードを受けた3台のワークスポルシェ。
カラーリングはロスマンズの白ベースから、黄色と赤になり、ちょっと違和感を感じた。
でも予選はポルシェの123グリッドとなり、カストロール・シルクカット・ジャガーは4番手以降からのスタートになった。 

 一方AGEザウバー・メルセデスは予選2日目、ミュルサンヌでタイヤがバーストし危険だとして撤退を決めた。このシーズン中に何度もバーストを繰り返し、過酷なル・マンで、もしも何かあったら、という危惧からの撤退だった。
なによりメルセデスは1955年ここで大事故を起こしている。だから神経質になるのは当然だった。
~日本勢も充実の一途~

 日本勢を見てみると、トヨタ・チーム・トムスは4年目のル・マン遠征となり、36号車ミノルタ・トヨタ88C(G・リース、関谷正徳、星野薫)が予選8番手。37号車タカキュー・トヨタ88C(P・バリラ、T・ニーデル、小河等)が予選10番手。

 マツダは3カーエントリー。4ローターのマツダ767は201号車、202号車。
去年7位完走したマツダ757が203号車であった。日本人ドライバー、片山、寺田、従野はそれぞれのクルマのエースとして、外国人と組んでいた。

 ニッサンは3年目のル・マンである。エントリーは2カー。ニューV8のVRH30エンジンを積んだニッサンR88Cの23号車は星野一義、和田孝夫、鈴木亜久里。32号車はA・グライスたち外国人。

 ほかにチーム・ルマンからニッサンの3・2リッターV6エンジンを積んだ85号車マーチ87Sと、86号車マーチ88Sが参加し、85号車には鈴木利男、86号車には森本晃生が乗りこんでいた。

 3年目の高橋国光は、ブルーノ・ジャコメリ、岡田秀樹と組み、ケンウッド・クレマー・ポルシェに乗る。さらに片山右京は、クラージュコンペティションから、クーガーC22ポルシェで出場。
結論を言ってしまえば66周目片山右京はクラッシュして炎上、爆発。右京は命からがら逃げ出し無事であった。
 さらに米山二郎、福山英郎のADAが出場。序盤は苦戦したがC2クラス2位に入る快挙を成し遂げた。

決勝レースは6月11日、現地時間午後3時にスタートが切られた。
ポルシェ3台が先行したが、すぐさまヤン・ラマーズの2号車ジャガーが食い下がり始め、1周しないうちに2位まで上がって、7周目にジャガーは首位に立った。しかし11周目のコントロールラインは17号車ハンス・シュトックのポルシェが首位奪還。レースは17号車対2号車の戦いとなっていった。

この年のポルシェは本当に速かった。17号車のポールタイムは3分15秒64で去年の6秒短縮。4位のジャガーのタイムが3分21秒78だからこの差も6秒。
が、しかしレース本番では3分24秒あたりの勝負。それでも速いことは速い。
速いペースでの一騎打ちが延々と続いた。

1時間後、各車給油が終わって、トップは2号車のジャガー。2位、17号車のポルシェとの差は、わずか2・5秒。
2時間後わずか3・5秒。
3時間が経過したところで、1位のジャガーと、その時の2番手、シュパンポルシェとの差がようやく35秒と開いた。

17号車、シュトックたちのワークスポルシェは予備燃料タンクが機能せずエンスト。ゆっくりピットに戻って修理したが8位に後退した。これで終わりかと思ったら大間違い。そこは24時間レース。17号車はもの凄いリカバリーを見せるのであった。

優勝することになる2号車ジャガー(ヤン・ラマーズ組)も決して順風満帆だったわけではない。 
追突されリアカウルを交換するため、2分のタイムロスをした。さらに日曜の朝小石が当たりウインドスクリーンを交換した。
そうして徐々に17号車のポルシェも2位に復帰し、差を詰めてくる。
ゴールまで4時間。ここで雨が落ちてきた。そして17のポルシェがスピン。ジャガーは1周分の差をつけて15時のゴールを飾るのであった。

珍しいことに、この年のル・マン24時では1度も、ペースカー(セーフティーカー)が出なかった。

さて日本勢は高橋国光、岡田秀樹がケンウッド(クレマー)ポルシェで9位。
これは日本人として当時の最高位であった。


 (高橋国光 岡田秀樹 ジャコメリ組9位完走)


36号車(ミノルタ)トヨタ・トムス88C(関谷正徳、星野薫、リース組)が
12位。
外国人組の32号車ニッサンR88Cが14位。このクルマは最後に鈴木亜久里が乗った。
マツダ勢は寺田陽次朗の203号車(マツダ757)が15位。201号車が17位。202号車が19位。だった。
日本車最高位であるトムスでさえ、優勝したジャガーから43周遅れ。
まだまだ、日本車のル・マン制覇など夢のまた夢であった。


 (番外:4月はサファリ・ラリーにも出かけた)