わが心のル・マン28年史 その19 1996年第三話「日本の将軍、加藤眞の粘りと、関谷正徳スープラでの挑戦。正美、光貞、初のル・マン」


1996年のル・マンに対するTOYOTAは、
46号車が「チーム・メニコン・サード」という名前でエントリー、
クルマは、サードMC8R(ベース車はMR2にセルシオのV8エンジン搭載)。

57号車が「トヨタ・チーム・サード」という名前でエントリーし、
スープラLM。エンジンは2140リッター・ターボであった。
ともにGT1クラス。激戦区である。

メンバーを見ると、サードの加藤眞がいわば校長先生のような存在。
MC8Rのドライバーは、M・マルティニ、アラン・フェルテ、パスカル・ファブレ。
スープラのドライバーは、関谷正徳、影山正美、光貞秀俊であった。

「エントリーはサードの名。二つの車種で挑戦」
 TAKAGIRI TADASHI


まずはスープラのほうを見ていこう。

何といっても1995年のル・マン・ウイナーである関谷正徳が、
若い影山正美と光貞を連れてきたという印象で、
車検場で会った時、
「関谷先生と生徒二人のような感じだね」とからかったら、
「先生じゃない先輩だよ」と関谷が訂正してきた。

3人は体格的にも同等で、関谷が体重64キロ、影山正美61キロ、
光貞が61キロである。

影山も光貞もこれが初めてのル・マンだ。
光貞が言う「(スケジュールが)スローペースですよねー。
(コース見てきたけれど)コースは凄いですね」

光貞がフレッシュなコメントを発してきた。

光貞は1970年12月29日生まれだから、この時はまだ25歳。
父親がラリー好きで、赤ん坊の時にはナビをする母の膝に乗せられ、
ラリーに同行していた。
ポケバイをやりたかったが、父親が、カートを見せ、
「これでどうだ」というので4輪に乗り始めた。
三重県生まれだが門真市に引っ越し、レースから遠ざかったが、
1988年のF1を見て、燃えに燃えて、再びレースの道に戻ってきた。
そしてこの時は5ZIGENからF3000に参戦している。
大変に苦労してここまで昇りつめてきた男である。

一方の影山正美にも、何度かインタビューしたことがある。
1967年5月2日生まれだから、この時はもう29歳であった。
兄の影山正彦は高校野球で甲子園を目指したが、うまくいかず、
ついついグレてしまい、その兄に付いて、少年時代は、
悪いこともずいぶんやった。
でもこの兄弟はレースによって救われた。
レイトンハウスが二人の受け皿だった。
二人とも有名なレーサーになり立派に家計を営む。

光貞も、正美も、苦しい時代を過ごしたやつ。
僕はそういう人間が好きだ。
そして、ようやくル・マンという
晴れ舞台にやってきた。
でも、まだまだ修行は続く。
ル・マンは人間の魂を磨く場所なのだ。

「日本人初のル・マンウイナーは影山正美と光貞秀俊を導いた」
 TAKAGIRI TADASHI


予選のピットに行くとまず関谷が乗り込みセッティングを始める。
タイムは4分21秒くらい。

決して速くはないが、
ポルシェやマクラーレンと言ったスペシャルGTカーではない。
残念だが4分台での走行になるだろう。

関谷は4分15秒728まで伸ばしたところで、影山に変わる。
影山も初めてだから攻めてはいけない。

でも関谷は追い立てることはない。

「いや快調、快調。若い人の方が神経使うよね。俺は使っていない」

影山は降りてきて、

「怖いですね。初めてマカオ走った時のようにワクワクしました。
雰囲気に飲まれそうです。インディアナポリスからポルシェコーナーに
かけては好きな感じです」

光貞もその後乗って、

「いやー、おもしろーい」と笑って降りてきた。

初日のタイムは
関谷が4分08秒287 影山が4分19秒775 光貞が4分23秒775だった。

ちなみに予選二日目のタイムは、
関谷4分06秒532 影山4分15秒339 光貞4分16秒412。

やはり先生の方が速かった。

さて一方のサードMC8Rだが、初日にマルティニがオーバーレブさせてエンジンブロー。

加藤眞は怒っていた。

「ル・マンは永遠の大河ドラマだ」
 KIKUCHI KAZUHITO


しばし加藤と話す。
「執念とか、こだわりとかはないんです。
できればツーリングカーとか
F1とかやりたいんですが、
そんな能力も経済力もないだけ。
なぜル・マンかというと、
ル・マンのレースは、やめない(続く)から。」

「(94年の)2位は、たまたま運が良かっただけ。ル・マンは時代ごとに
チャンスはある。僕は勝つために来ているんであって、勝てないものに
人生を賭ける気はないんです」

加藤眞は2台の代表じゃなく、
あくまでもMC8Rの開発者であるとも言った。
名前は貸すけど、スープラとは別部隊ですよと言いたげ。

ただ、このジャパニーズ・ミッドシップは、去年より良くなったが、
予選日からオーバーヒート傾向にあった。

スープラは予選37番手から発進。スタートは関谷から。
MC8Rは予選39位から。スタートはアラン・フェルテだ。

15日土曜日に決勝がスタートすると、
サードMC8Rは暑さのためピットインするごとにラジエターに大量の
水をかけた。

スープラが31位なのに、メニコンサードは41位とふるわない。

夜9時。メニコン・サードMC8Rピットイン、23位まで上がった。
水で冷やしてピットアウト。
しかし10時にはガレージに入って、ギアボックス交換。
40位に落ちた。
深夜、リアカウル補修。冷却系補修、それでも粘る。

日曜の昼、加藤眞の体が揺れている。

「そりゃー疲れるさ。年相応にね。でも50台でもエベレスト登れる時代でしょ?
モータースポーツもいくつになっても大丈夫」

さて若手を連れて頑張ってきたスープラに話を戻そう。
関谷がスタートして30位。正美、光貞の順で交代。
夜22時過ぎ、早めにブレーキローターを交換。

「深夜の力走。だが悲劇の朝が待っていた」
 ONISHI YASUSHI


深夜は関谷が力走。1時48分から影山。3時16分光貞。

朝が来て、8時前、7時56分から光貞が担当してコースに出た。
しかし8時過ぎ、ポルシェコーナーで他車がスピン。
接触を避ける形で、光貞がクラッシュ。フロントを痛めてしまった。

これでスープラはリタイヤ。
光貞は責任を感じてどこかに閉じこもってしまった。
しかしよく頑張った。
スタッフも光貞を責めてはいない。

一方のメニコン・サードMC8Rは、オーバーヒート、エンジン1気筒が死に、
ギアボックス交換2時間。
でもなんとか24位完走。

「加藤さん。来年はどうします?」
「帰って考えます」

なんだかホームランを25本打たれた監督のように、
妙にさばさばして、帰っていく。

でもその目は、悔しさに満ちていた。

了。