わが心のル・マン28年史 その27 1998年第二話「TOYOTA TS020 GToneの挑戦と、土屋圭市停電秘話」


 TOYOTAのル・マンへの挑戦は「惜しいなぁ。あと一歩だったのに」
ということが何度もあった。

 1992年のTS010による関谷正徳の2位。
 1994年のチーム・サード、デンソー・トヨタ94C LMでの2位。

 95年と96年はスープラやMC8Rで、チーム・サードを中心に、
プライベート参加したが、ぼろぼろに負けて、伝説にすらならなかった。

 TOYOTAのル・マンへの挑戦は、正直言って、あまり上手ではなかった。

 ごく一部の人が賛成し、誰かに任せて、勝った時にはTOYOTAを鼓舞する。

 現場の大将は作らず、何となく全体で物事を進める。そんな傾向があった。

 この1990年代10年の、大きなチェンジということで言えば、

 1991年に誕生したTS010のレースプロジェクトは、

トムスGBがトヨタからTS010を借りるという形で実現していたが、

1993年にプジョーに負けて4位が精いっぱいだったことで終わりを告げた。

(94年サードの2位はTS010ではなく旧Cカーである94C)

 TOYOTAは、TSという車名では4年間欠席し、
5年ぶりに「TS020 GTone」という名で1998年ル・マンに現れた。

 ただ政治的にはこれまでの路線と違う。

 ル・マンを戦うのはもはやトムスではなかった。
ドイツ、ケルンにあるTMG(トヨタ・モータースポーツ有限会社)
チームとしてはTTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)が戦う形になった。

一方、トムスは、トムスGBという会社とファクトリーを持ち、
F3の世界制覇や、行く行くはF1も視野に入れて、考えていたが、
それと別の流れで、トヨタに貢献してきたラリーの親玉、
オベ・アンダーソンを社長に、100%トヨタの子会社にする動きが加速し、
世界ラリーや、ル・マン、はてはF1にまで打って出る路線が敷かれ始めたのである。

 誰が仕掛け、誰が動いた。というお話を書く気は私にはない。
大きな流れの中でTOYOTAが、この方法が合理的だとして選んだ道だった。

 したがって1998年のTOYOTA TS020GToneは、ドイツ・ケルン生まれ。
設計はプジョー905などを設計したアンドレ・コルタンツだ。

(TOYOTA TS 020 GTone 27号車)
TAKAGIRI TADASHI


 エントリーは東富士の住所とケルンの住所が併記されている。

 ドライバーラインアップを改めて見てみよう。
 カーナンバー28が事実上のエース。マーチン・ブランドル、
エマニュエル・コラール、エリック・エラリー。

(TOYOTA TS020 GTone 28号車。ブランドル組)
TAKAGIRI TADASHI


 カーナンバー29が落ち着いた組。ティエリー・ブーツェン、
ラルフ・ケレナース、ジェフ・リース。

 そしてカーナンバー27が日本人トリオ。片山右京、鈴木利男、土屋圭市であった。

 右京は97年でF1を引退し、スープラでGTを戦っていたし、
鈴木利男は1997年でNISMOとの契約が切れた。
 HONDAで走っていた土屋圭市は1997年はマクラーレンで好タイムをマークした。
 また、土屋はこの年から国内GTではサードに移籍して、スープラで走っていた。
 そんな流れもあって、TOYOTAに大抜擢された。

 春先、土屋はスパ・フランコルシャンでTS020のテストに臨み、走り込んだ。
 土屋は、帰国してからは、自分のクルマで、夜、走りに行った。
 六本木から中央高速。八王子から山梨のワインディングを抜けて、
 河口湖、山中湖、御殿場。
 ある晩、土屋の携帯が鳴った。

 「おう、今どこにいるんだ」
 相手はトムスの舘信秀会長だった。
 「河口湖です」
 「何しているんだ」
 「ル・マンのトレーニングです」
 「今六本木で集まっているから来い」
 「はい、すぐ行きます」

 土屋はものすごい勢いで六本木に戻ったが、
 舘は酔いつぶれ家に帰ってしまっていた。

5月の予備予選に続いて、ポール・リカールでシミュレーションを行い、
7500㎞を走り、エンジン、ギアボックスには何の問題もなかった。
 
 6月2日車検場で、片山右京、土屋圭市、鈴木利男に会う。
 皆元気そうだった。
 土屋圭市とインスタント写真を撮った。

(ちょっとぼけているのはチェキで撮った写真をスキャンしたから)
NOBUHARA HIROSHI(大巨匠撮影なのに)


 トヨタは今回、大きなモーターホームを建てた。おしゃれな中庭もあり、
ドライバーには一部屋一部屋自室が与えられた。
 しかも入り口には駅の改札口のような、パスコントロールがあり、
メディアは締め出された。
(誰かが代表して文句を言ったらしく、どこかのタイミングで
入れるようになったと記憶している)

 3日(水曜)の予選は、19時から21時までは片山右京が乗りっぱなしで
マシンを作り、アタックもやる。右京はこの日だけで26周し、
タイムは3分40秒472。全体の9位であった。
土屋はこの日12周して、タイムは3分46秒814。
鈴木利男はこの日13周して3分49秒395。
 もうこれで十分。土屋、鈴木ともに翌日(4日)も若干タイムはアップしたが、
完全に決勝用セットアップ。無理なアタックはしなかった。

 6月6日決勝日は、朝から霧が出た。
 荷物を持って車に向かうと、雨も降った。予報では雷雨だった。
 しかし、正午を過ぎたころには薄日が差し、ほのかに暖かくなってきた。

(スタート前の土屋圭市と片山右京)
TAKAGIRI TADASHI


 スタートは午後2時。1時過ぎに、スタート進行がはじまった。

 スターティング・ドライバーは土屋圭市だった。

8番手スタートから1周して6位で通過。目の前のメルセデスを追う。
 2周目、メルセデス36号車を抜いて5位。
 3周目、ポルシェ26号車を抜いて4位。
 7周目、トップは28TOYOTA、2位29TOYOTA、3位35メルセデス。4位が土屋圭市。

 僕の知り合いの圭ちゃんという男は、
 M・ブランドル、T・ブーツェン、B・シュナイダー、P・マルティニという
F1経験もある世界屈指のドライバーと互角に戦っていた。

 14時41分、1回目のピット。給油だけでまたコースへ。
 15時32分 土屋から右京に交代。タイヤを新品にした。
      もうこの時点でメルセデスはいない。
 17時19分 右京から利男へ。タイヤは新品。順位は5位。
      この時、28号車エリック・エラリーがピットロード入り口でスピン。
      フロント部分を開けて大掃除が始まった。
      そして利男がすぐに戻った。3分間ブレーキを見てコースイン。
      TOYOTAのドタバタが始まった。
 17時47分 利男がまた帰ってきて、ギアボックスのチェック。これで17分ロス。
 18時15分 利男が帰ってきて、2分ほどチェックしてまた出る。この段階で順位は19位。
 18時27分 利男が帰ってきてここから30分ブレーキディスク交換とギアボックスケーブル交換
 18時58分 右京が乗ってコースへ。
 19時08分 右京が帰ってきた。ギアボックス交換で19分停車。順位は36位まで落ちた。
 20時13分 右京ルーティーンのピットとなり、給油だけでコース復帰。
 21時06分 右京から利男へ。
 22時04分 利男もう一回スティント。
 23時00分 利男3スティント目に入った。
 23時54分 利男から圭市に交代。いよいよ夜に強い圭市の出番だった。

 ここで仰天の大トラブルが発生したのである。

 0時30分頃、圭市はユーノディエールのストレートを走っていた。
 無線で「今、追い風なの?向かい風なの?」とやり取りをしていた。
 圭市は目で、時速324キロの表示を確認した。その直後、
 バサッと電気が消え、エンジンが止まり、真っ暗になった。
 第2シケインに近づく。200メートル看板、100メートル看板。
 それを頼りにブレーキをかけ、左にハンドルを切って第2シケインに入り
斜めの状態で具ラベルの上に入り、軽くバリアにぶつかって止まった。
 「止まった。怪我はない」まずそう思った。

 目の前に第2シケインのオフィシャルたちが来てフランス語でわあわあ言っている。
「いきなり真っ暗ということは停電だ」圭市は自分で何とかしようと思った。
 ここでリタイヤしてフランス人のマーシャルたちと朝まで過ごすのは嫌だった。
 ひとまず安全な場所まで引っ張って行かれ、考えた。
 運転席の後ろの懐中電灯を持ち、室内のバッテリーケースを見て、
カバーを開けてみたら、接点が振動でバッテリーから外れていた。
「これだっぺ」
 でも、下手に触って感電したくないから、ドライビンググローブを外して、
それで覆って、端子と接点をつないだら、電気が入った。
 エンジンはまだかけず、無線で呼びかけた。
「土屋です。今第2シケイン。バッテリーの端子をつなぐ接点が折れて停電。
今、手で押さえて付いたから、これからゆっくり帰るから、バッテリー直して」
体を左に傾け、左足でコードと端子ふんづけて、時速100キロくらいでゆるゆると帰る。

 0時50分ピット到着。バッテリーを交換。再び土屋が乗ってコースへ。
 1時54分給油して、土屋のままコースへ。3時まで戦ってここで右京に交代した。
 この時点ではまだ19位だった。
 朝5時半、右京から利男に交代。雨が降りタイヤはレインだ。
 朝8時まえから再び土屋。
 8時56分再びギアボックス交換。
 朝10時まだ土屋で行く。
 10時時点の順位は、10位まで上がってきていた。
 11時半から片山右京に交代。
 午後2時ゴールした。

(優勝はポルシェ911GT1。TOYOTAと名勝負を繰り広げた)


 トップだった29号車は、ゴール1時間半前にリタイヤ。
 28号車も13時間でリタイヤした。
 唯一残ったTOYOTA TS020 GToneは27号車だった。

 日本人トリオによって9位。
 ドライバー3人は、がっかりしてはいなかった。
 ドライバーとしてやるべきことはしっかりやり、
 悔いがなかった。
 来年やるならもっと上を狙う。
 そんな気持ちで、ル・マンを後にしたのであった。

 1998年のTOYOTA TS020 GToneでの挑戦はハイブリッド時代の
TOYOTAのチャレンジの基礎になったと筆者は感じている。
 何が?と言われると説明しがたいが、自主性、戦う意識、
システム、組織。あらゆるものがだんだん良くなってきたということだ。

 この項了。