2001年のル・マン。エントリーをまず見てみよう。
LMP900(ル・マンプロトタイプ900)には、アウディが4台並んだ。
①は去年優勝したF・ビエラ、トム・クリステンセン、エマヌエル・ピロの三人で、
オペレーションはアウディ・スポーツ・チーム・ヨーストである。
②はワークスではあるが、アウディ・スポーツ・ノース・アメリカの所属で、
ドライバーはL・アイエロ、R・カペッロ、C・ペスカトーリ組である。
③はチャンピオン・レーシングからのエントリーで、オーナーはデーブ・マラジという
インド人実業家(アメリカ在住)ドライバーはハーバート、ケレナーズ、テイズの三人。
④はヨハンソン・モータースポーツで、ステファン・ヨハンソン、トム・コロネル、ラメールのドライブ。
このあとにキャデラックが2台。
日本製のスポーツレーシングカー「童夢」が2台。
アメリカのパノスが2台。
オレカが走らせるクライスラーが3台並んだ。
このLMP900の仲間とは別にLMGTPというクラスがあって、
カーナンバー⑦がベントレーで、ブランドル、オルテリ、スミスのトリオが乗る。
⑧のベントレーは、ウオーレス、レイジンガー、バン・デ・ポールが乗る。
ベントレーは、ル・マンが始まった1923年に優勝。
1927年から1930年まで4連覇、合わせて5勝を果たしている名門中の名門である。
そのベントレーが71年ぶりにル・マンに帰ってきた。

「ベントレーR8」
すごい話だが、現代的な経緯も言えば、昔のベントレーはすぐに没落。
ロールスロイスの傘下になり、21世紀のこの時代はフォルクスワーゲン=アウディグループの
ひとつのブランドになっていた。
前にも書いたことがあるが、日本のTOM'Sは、1992年、イギリスのノーフォークにTOM'S GBを設立した。
イギリスF3や、ツーリングカー、スポーツカー、果てはF1までを見据えたファクトリーであった。
代表には、日本のレースの草分けでもある鮒子田寛氏が就任していた。
鮒子田自身1989年以降はトムスの監督としてル・マンプロジェクトをけん引していたことは前にも書いた。
そのTOM'S GBが、思うようにいかなくなって、工場を閉ざしたのが1998年ということになる。
このファクトリーはアウディが買い取り、アウディ傘下の「レーシング・テクノロジー・ノーフォーク」=RTNという組織になった。
鮒子田は残務整理のためTOM'S GBに残ったが、経営手腕を買われて、アウディ側のジェネラル・マネージャーとなる。
さらに取締役として、今回の「ベントレー・スピード8」を率いてきたわけで、日本から出かけて行ったメディアはこの展開にビックリ仰天。
クルマの形を言えば、屋根なしのアウディに対してベントレーは「屋根ありのアウディ」みたいなものだ。
でも旧いブランドを懐かしむヨーロッパの人々にはまあ好評だった。
(昔や現在のベントレーに乗った「ベントレークラブ」の面々が、イギリスからやってきていた)
車検は6月11日と12日。大きな事件は起きなかったが、童夢のマシンや、MGのマシンなど9チームが、
小さな箇所を指摘されて、水曜にサーキットで簡単な再車検を受けた。
予選をリードしたのは、予想通りアウディ。
木曜日の夕方リナルド・カペッロが3分32秒429をマークして2号車のポールポジションを確定。
2番手が1号車のアウディ。3番手が3号車アウディだが、
4番手に9号車の童夢。レーシング・フォー・フォランドが入った。ドライバーはヤン・ラマーズであった。
ベントレーは6番手と7番手である。
2001年6月16日決勝の朝。どうも(決勝中に)にわか雨が来そうだ、ということになり、
各陣営はカットスリックタイヤを作ったり、インターミディエイトタイヤの用意をしたり忙しかった。
ウオームアップのトップは②号車アウディで3分40秒497。
さて、テレビ朝日放送陣は、田原アナウンサー、解説由良拓也、ゲスト解説郷和道。
さらにピットバルコニー席には舘信秀、飯田章がゲスト。他にもテーマソングを歌ったタレントなどが来て
いたが、2000年のテレビ朝日祭りとはまったく一線を画した寂しい中継になった。
レースがスタートする時は晴れていた。
ローレン・アイエロがドライブする2号車が逃げていく。
そこに童夢9号車ホーランドの、ヤン・ラマーズが食らいつき2位に入った。
3番手が①のアウディ・ヨースト(ワークス)であった。
しかしユーノディエールでは風が強く木の葉が舞っている。
アウディ2号車が大きく先行。2位が童夢。3位がアウディ1号車。クライスラーも良いポジションだが15号車ダルマスがコースアウト。
ところが3周目に入ったところで、サルト・サーキットが急に暗くなった。
もやがかかり、激しい雨が落ち始めた。インディアナポリスはもうウエットだ。
多くがスリックタイヤでスタートしており、いきなり大混乱。4号車ヨハンソンのアウディがノーズを失う。
5号車キャデラック(ベルナール)も止まった。
面白いことにメインストレートは晴れている。
さらに別のコーナーでは,5台ほどが多重クラッシュ。大混乱となった。
トップも2号車から9号車(童夢)に変わったが、童夢も追突されておりピットイン。
マーチン・ブランドルのベントレーがトップに立つ。
「もう雨は要らない。どこかへ行って欲しい」そんな願いをあざ笑うかのように、
レース開始2時間後、日本の台風も真っ青な大暴風雨となるのであった。
19時。スタートから3時間。トップはビエラ組アウディ。2位はブランドル組ベントレー。
ヨハンソンのアウディは雨の影響でスピン。フロント、アンダーカウル、あれこれ交換を余儀なくされ
ユーノディエールでストップするなど散々な目に遭っていた。
5時間を経過しても雨はやまなかった。ヨハンソンはリタイヤ。トップ3はその他のアウディになった。
そして夜のとばりが降りる頃、アウディ3号車がスローダウンし順位を下げた。
23時になると、ブランドルのベントレーがリタイヤ。ヨハンソンのアウディもリタイヤ。
イギリス期待のMGも一台がリタイヤ。
童夢は生き残っているが、序盤の2位は「無理の産物」だったのか、23位にまで落ちた。
「レーシング・フォー・フォーランドの童夢」
デンマークの童夢も30位に低迷した。
そして午前1時のリザルト上に3号車アウディ(チャンピオンレーシング)のリタイヤが記され、デンマークの童夢が戦列を離れた。
(残念ながら、童夢のマシンは、速いけれど強くはなかった)
深夜に入ると、天候は少し落ち着き、レースも淡々とした様子になってきた。
午前4時の順位はトップが①アウディ。2位が②アウディ 3位が⑧ベントレー。
すでに20台のマシンがリタイヤしていた。
朝になってもまだ雨が残った。ようやく8時頃からスリックタイヤが使えるコンディション。
しかしまた降り始め、カットスリックにしたり、本当に散々なル・マンである。
ようやく日曜日のお昼が来て、路面は乾いた。
残り3時間、ピロの1号車がピットイン。時間がかかり緊張する。
しかし6分間ストップし、パーツをポンと変えただけで戦列復帰。
荒聖治と近藤真彦が乗ったクライスラーは、荒が乗った244周目に火災が発生し、
荒は緊急脱出。ここでリタイヤした。
しかし荒は、予選のセッティングから、燃費テスト、アタックまでこなし、
ルーキー・オブ・ザ・イヤーとして表彰され、立派に使命を果たした。
「荒のクライスラー・オレカは火災でリタイヤ」
そしてまたまた雨が来た。
まさに2001年は荒天のル・マンだった。
その中で、強さを発揮したアウディR8の2台。
ライバルたちは遅れていき、アウディの2連覇が決まった。
3位のベントレーは15ラップ遅れだった。
完走は20台。
童夢2台もパノスも2台リタイヤした。
タイサン・ポルシェは総合11位。
「タイサン・ポルシェも頑張った」
本当に皆様お疲れ様と言いたい、地獄のようなル・マン24時間レースだった。
郷和道は、この年、何もなかったわけではない。
資金はつぎ込み、2台の童夢を出し、葉隠れのごとく、自分の名を出さなかった。
荒聖治と加藤寛規を走らせ、徐々に次のル・マンへの準備をした。
それが実を結ぶかどうかなど、誰にもわからない。
ル・マンは、誰も解いたことのない、高級な方程式なのであるから。
この項 了。