わが心のル・マン28年史 その15 1995年第三話 ニッサンNISMO R33 GT-Rの挑戦と近藤真彦選手の飛躍。


 ル・マンの、もう一人の雄、ニッサンを忘れてはいけない。
Cカー時代の1990年、ポールポジションを取り、スタートから手に汗にぎる戦いぶりを見せ、世界を驚かせたニッサン。

 しかし、あれ以来、ニッサンはル・マンから遠ざかっていた。
 そして1995年、GTカテゴリーが主流になるのを受けて、日本が世界に誇る名車スカイラインGTRで再び挑戦を開始したのである。

ニッサンが4年間ル・マンに出なかったわけは90年の大攻勢が散々な結果に終わり、費用対効果が望めなかったことと、91年からレギュレーションが変わり、すぐには準備できなかったことなどがあげられる。
しかしル・マンは「GTカー・ウエルカム」の時代になった。

 そして1989年から1994年まで販売されていたR32スカイラインが終わり、1995年1月にR33スカイラインGT-Rが発売された。そういうタイミングでもあった。

 ル・マンの言い出しっぺは、R32スカイラインを育て、R33の商品主管であった渡邊衡三と、水野和敏。共にニッサンの伝説的エンジニアであった。
「スカイラインには過去50勝の栄光がある。新しいGT-Rは世界と戦うイメージにしたい」そんな動機だ。むろんニッサン本社内では賛否両論はあった。

一方で、GT-Rはイギリスでも販売が開始され、「すごいクルマだ」というエンスージアストの評判も高まりつつあった。
水野エンジニアは、テクニカルセンターで未来のR34の開発をしつつ、週の半分はNISMOでレース用GT-Rの開発にいそしむ。そんな生活だった。

 95年のル・マンにGT-Rで挑戦することが決まったのは、94年のル・マンの直後。94年の7月にはもう開発が始まっている。
 ル・マン出場の公認を取るためNISMO GT-R LMというロードゴーイングカーを1台制作し、参加資格を取った。これは単なる市販車参加だと、サスペンションの取り付け口が20ミリしか変更できない。このLMを作っておくと、改造範囲が大きくなる。そういうメリットがあるからだ。

 1995年ル・マンには23号車、22号車。2台のGT-Rで臨むことになった。
 見た目は同じ。モノコックも同じ、サスペンションも同じ。
 ただ、エンジンとミッションが違う。
 エースの23号車は、グループA使用をベースにしたエンジン。22号車はJGTCやN1から開発したエンジン。また23号車はミッションが6速シーケンシャル。22号車が日産製の5速Hパターンだった。
 なぜそうなったのか? 理由はこれから3年で、どの方向がいいのか探る。そういう意味の別設定だった。
 ブレーキは2台ともCカー用のカーボンブレーキで武装していた。

 さてもう一度、読者の皆様を「1987年」に引き戻そう。
 5月の帝国ホテル。R87Eをル・マンに持ち込むNISMOの壮行会があった。
 今は亡きNISMOの総監督、難波靖治は歌手の近藤真彦を「応援団長」に指名し、マッチはNISMOの青いジャンパーをもらった。

そして初めてル・マンに行き、バルコニーからレースを見た。
 その時、マッチは興奮したけれど、その青いジャンパーは借り物だと思っていた。「いつかはここを走りたい」そう思った。
 彼がル・マン出場を果たしたのは、私のこの文章(その12)でも書いたが1994年のことであった。ポルシェでの挑戦は完走扱いにならなかった。
 でも、あのNISMOの壮行会から8年。ついに近藤真彦選手にNISMOからドライバーとして出てほしいという依頼が来たのである。
 GTドライバーとしては、すでにアンソニー・リードと組んで優勝したこともある。またF3000にも乗るようになった。近藤真彦選手はレースでもプロの領域に入り、ついに、晴れてニッサン・ワークス・ドライバーとなったのである。

 さて、多くの人が知らなかったことを、私は、書こうとしている。
 それは1995年のGT-Rル・マンチャレンジに向けて、ニッサン・ワークスが合宿に入ったことだ。
 基本となるマシンは鈴木利男の手で、熟成がすすめられていた。ただ利男のコメントを見ると「やはり24時間のル・マンの場で、GT-Rがどういう走りをするのかについて」はよくわからない。手探りが続いていた。
 そしてドライバーとスタッフは、TIと菅生において長期間のテストとトレーニングに入った。
 3月中旬は菅生であった。近藤真彦はサーキットまで星野一義のアッシーをやりながら、徹底的にしごかれた。
 そこで近藤選手が教えられたのは「ギアの減り方。デフの使い方」そうした変化に対応すること。
 マシンを満タンにして「はい近藤君行ってきて!」
 マシンを降りると、鈴木利男の走行データと比較して「お前のデフの使い方は偏っている」と言われ、夜もデフの話。

 近藤選手は言わなかったけれどまさに「体育会系・鬼の合宿」だった。
 でも、そこで彼は徹底的にプロドライバーに生まれ変わったと筆者は思っている。憧れのニッサン・ワークスで強化合宿。それが近藤選手を一人前にした。そう言っても過言ではない。
 ついに近藤真彦は本物のNISMOの青いジャンパーを着た。
1995年5月18日。赤坂プリンスホテルで壮行会があり、ついにこの日が来たという顔で、晴れやかに並んだ。

(ついにニッサン・ワークス・ドライバーになった近藤真彦選手)
(Takagiri Tadashi)


 そして95年6月。ル・マンに来てみれば、
 車検場では珍しくNISMOの難波さんや、ドライバーが場内のトークショーに出ていて、「ニッサンはこれから3年このGT-Rでル・マンを戦います」と言いつつ、ル・マンのファンに応対していた。このソフトさにもやや驚いた。
 難波さんは、けっこう固い人だから、こうしたファンサービスはしないと思っていたからである。でも、晩年はとても柔らかく接していただいた。

(NISMO難波靖治元社長は2013年11月27日に他界されました。本当にいろいろ教えていただきました。心より御礼申し上げます)
(photo Kumagai mutsumi)


 予選順位は23号車が全体の27位。タイムは4分9秒61。
 22号車が35位で、タイムは4分14秒43。

 23号車のアタックは鈴木利男が担当したが、セーフティーカーの電撃練習や、ミッショントラブルで足を引っ張られた。
 22号車のアタックは福山英朗。


(23号車 クラリオンがスポンサードのNISMO GT-R)
(ピンボケ失礼。後ろの森がきれいです。(笑))(Takagiri Tadashi)


 決勝のスターティングドライバーは23号車が星野一義。22号車が福山。
雨が降りそうだ。でもまだ降ってはいない。スリックでスタート。
 45分が経過し、雨が来た。16時55分。星野がピットイン。タイヤは変えない。
 でも3分後に入った福山はレインに変えた。
 18時04分。22号車は福山から近藤に交代。
23号車は星野から、鈴木に交代。ここでリアのみ新品スリックに交換して出たが、雨脚が強くなり、3周してピットイン、レインを穿いた。

 18時50分頃。雨の中でゼッケン8のWRがユーノディエールでクラッシュし長時間セーフティーカーとなった。ドライバーのパトリック・ゴナンは負傷し病院へ。

 20時31分、23号車は、鈴木利男から、初出場の影山正彦に交代した。
 20時34分、22号車、近藤のスティントが終わり粕谷俊二に交代した。

 深夜23時07分、22号車は粕谷から、福山に交代した。
 しかしそれより前、影山が乗った23号車は、22時47分から、ピットガレージに居て、ギアボックス交換に入っていた。心配されていたXトラック社のシーケンシャルギアボックスが、早くも壊れた。これで50分の作業時間を要し、23号車は大きく遅れた。
 深夜0時の順位。23号車は26位。22号車は13位。

 修理のあと、星野、鈴木、影山と夜を乗り切った。
 タイヤはブリヂストンに依頼した2スティントいけるタイヤ。これでピットでのロスタイムを軽減する作戦である。
 このピットに、まだF1に行く前の、ブリヂストンの浜島裕英さんがいた。
そして朝を迎えようとしていた。
もう一度星野に代わった直後、シフトチェンジが出来なくなりコース上でストップ。星野は怒った、怒った。でも、もはやリタイアである。
 懸念されたXトラックのギアボックスは駄目だった。

〈2016年の某日。星野一義に当時の話を振ってみたら「あのシーケンシャルは最初からダメだって言ってたんだ」とまた怒り始めた〉

 そこからはニッサンNISMOは虎の子の一台ともいうべき22号車を大切に大切に走らせた。
 朝7時。22号車は9位。朝9時、10位。ほぼこの順位を横ばいで行く。

 そして22号車最後のドライバーは近藤真彦。
 福山からクルマを受け継ぎ、ラスト1スティント半を一人でやる。
 15時21分。一旦ピットインして最後の給油。1分でコースへ戻った。
 わだちが怖い。それでもストレートでは300キロを超える。
 首脳陣が見守る中、前には追い付かないし、うしろも追ってはこないが、
何よりトラブルが怖い。ギアから変な音がすると生きた心地がしなかった。
 そして16時が過ぎ、近藤真彦はNISMO GT-Rを10位に導きゴールした。

 近藤は泣いた。うれしさというより、トレーニングのことや、長かった準備、
注意されたことなどが、一気によみがえり、涙が溢れたのだった。
 そして極度の脱水症状でメディカルセンターにいる福山のもとへ走った。

それからの近藤真彦選手は、全日本GT選手権で鈴木利男と組み大活躍。
2000年のル・マンではテレビ朝日レーシングプロジェクトの一員として、ル・マン8位。2002年にはチームオーナーとしてル・マン出場。その闘志とビジネスセンスには頭が下がる。
 筆者も、F1のハンガリーグランプリなど、よく二人で旅をさせていただいた。
 これからも、是非、新たなムーブメントを起こしていただきたい。

(了)