1997年のル・マン24時間レースはポルシェ911GT1が
デビュー2年目にして初優勝するのか?
はたまたマクラーレンF1-GTRが、もう一度優勝するのか?
それが大注目の年であった。
この2台は屋根ありのクーペ型車両でGT1カテゴリーに属する。
一方で、去年の覇者である屋根なしのスポーツカー、
ヨーストレーシングの「TWR ポルシェ」の連覇もあるだろう。
これはLMPクラスである。
ひとまず、1997年ル・マンのスターになれそうなマシンはこの3組だ。

最後尾がBMWワークスのマクラーレンF1GTR)
しかし、日本のニッサンが、ものすごいことをやってきた。
TWR(トム・ウオーキンショー・レーシング)と組んで、
ニッサンR390GT1というクーペ型スポーツカーを制作し、
3台をエントリーさせた。
これは仰天ものであった。
「R33型GT-Rでの挑戦は3年間やります」という声明から一転して、
まったく新設計のスポーツカーに変わった。
僕たち日本人にとってみればうれしい進化であったが、
これで本当に勝てるのか?現場感としては、心配の方が多かった。
ところで、目先を変えてお話をするが、
世界的に伝統があったスポーツカー選手権の一つに
FIA世界選手権のSWCがあったが、1992年に消滅した。
次にFIAは、DTMに目をつけ、これの拡大版としてITC(国際ツーリングカーレース)
を作ったが、成功せず、次にBPRシリーズに目を付けた。
これが基になってFIA GTというレースが出来上がっていく。
さて、メルセデスはDTMを経てITCに参加していたいきさつがある。
一方、マクラーレンやロータス、ポルシェなどはBPRで戦っていた。
彼らがひとつになったのがFIA GT選手権であり、この年、1997年に始まったのである。
でもFIAはやらせるだけで、F1のバーニーみたいに何でも面倒みる
演出家、コンダクターがおらず低迷することになる。
ただ、メルセデスCLK-GTRというクルマはFIA GTに出るため制作され、
やがて1998年のル・マンに姿を見せてくることになる。
そんな中DTMで戦うが「レースでの評価」が低かったBMW。
当然、何とかしたいと考えていた。
そこで、ハタと考えれば、「マクラーレンF1-GTRがあるじゃないか」。
「ワークスとして、このクルマで出て、ル・マンで勝ちたい」
まあそう考えるのは自然なことですわね。
ですから1997年はBMWも全面参加。メルセデスは1998年から登場し、
アウディはまだ姿を見せないという時期であります。
整理しますと97年はポルシェ、BMW、ニッサンのワークスが揃い、
ほかに、フェラーリや、マーコス(GT2)やムスタング(GT2)
クライスラー・バイパー(GT2)パノス(GT1)ロータス(GT1)
などが出てくる賑やかなル・マンとなった。
私は6月7日土曜日にAF273便で早朝のパリにつき、
例によってベルサイユの聖母様に会いにいき、
ソレムのグランドホテルにチェックイン。
ホテルの前は有名な僧院なので、ゆっくりとスケッチ。
慌てず、心落ち着かせて、コンディションを整えるのだ。

9日月曜にメディア受付をして、パドックでニッサンR390GT1を見る。
GT1クラスの車検は翌日なので、しばし車検場でスケッチして楽しんだ。

ああやって、ひもに通すとTの字になるからTシャツなのか?)
10日は曇りで寒い。
10時からラーク・マクラーレンF1-GTRの車検。
11時から関谷正徳のガルフ・マクラレーンの車検。
午後は14時半から日産の車検というわけで、
土屋圭ちゃんと喋ったり、関谷さんとしゃべったり、
午後は星野さんにインタビューしたりして過ごす。
11日水曜日、いよいよ、予選が始まる。
ニッサン23号車は星野、影山、エリック・コマスの組み合わせ。
星野が1周してピットに帰り、インスタレーションチェックして、そこから5周。
次いで、影山5周、コマス5周とやっていく。
予選開始1時間、トップはダルマス組のワークスポルシェ26号車。3分47秒364。
2時間後、トップはダルマス組のワークスポルシェ26号車3分45秒490。
2位はアルボレートのヨーストポルシェ7号車(屋根なし)3分46秒066。
さらに夜、22時からのセッションでブーツェン組の25号車が3分44秒234でトップに立ち
暫定のポールポジションを得た。

横から撮るが速すぎて・・)
TAKAGIRI TADASHI
しかし圧巻は12日木曜日の予選2日目。
ヨーストポルシェ7号車が3分41秒581をマーク。
アルボレートがポールポジションをもぎ取った。
2番手は25号車のポルシェ911GT1(ブーツェン)4分43秒363
3番手がニッサンR390(バンデポール)4分45秒324
屋根なしポルシェの速さが光った。
決勝の朝は寒かった。黒い雲が空を覆っていた。
スタート時は雲100%
7号車、25号車の順だがたちまち25号車がトップに立つ。
ニッサン22号差も前へ。7号車3位。
でも3周目7号車はニッサンを抜き25号車を抜いて再びトップに立つ。
3時間後からは26と25がワンツーの形になる。7号車は3位をキープ。
ポルシェの独壇場である。4位以下はマクラーレンが3台。
ニッサンは遅れ始めた。
ずっとずっとこのままの形が続いたのだが、朝の7時49分25号車が遅れた。
原因はボブ・ウォーレックのスピン。アルナージュでマシンを傷めたのだ。
トップでレースをリードしながらリタイヤである。
果たして、ワークポルシェ911GT1は1台きりになってしまった。
翌日は暑くなってきた。
トップを走っていた26号車が13時43分にユーノディエールのストレートで
燃え始めた。ドライバーのケレナースは無事だった。
これによりワンラップ遅れの7号車がトップに立った。
ポルシェワークスの911GT1は2年目も勝てないどころか
残酷な結果になってしまった。。
そして14時過ぎ、もうひとつの大きな出来事。
ガルフ・マクラーレン39号車、アンドリュー・ギルバート・スコットが、
ミュルサンヌ前のストレートで燃え始めた。4位だったがこれでリタイヤである。
関谷正徳の1997年ル・マンもこれにて終わった。
テレビ画面より。
こうしてアルボレート、ヨハンソン、クリステンセンの三人は
1台しかエントリーしなかったヨーストレーシングのポルシェを優勝に導いた。
これで2連覇。
ラインホルト・ヨースト率いるヨーストはラルフ・ユットナートいう
老練なマネージャーがいて、1984年からル・マンに出ている。
こうしたプライベートがワークスを破る。これもル・マンであり、
ドイツのレーシングチームの優秀さである。
設計は何度もいうがロス・ブラウンである。
2位には41号車のマクラーレンF1-GTR これはガルフのもう一台だった。
3位が43号車のマクラーレンF1-GTR これはBMWモータースポーツの
ワークスカーであり、ちょっぴり面目を保った。
ひとまず1997年のレースの大まかなところはこうであった。
次回は日本のチームの活躍と辛苦をお伝えしたい。
この項 了。