勝利の栄光か? 絶望か?
昼下がりにスタートし、鋭い西日が目を射る夕暮れ、
魔物が棲むと言われる深夜。
倦怠の朝を経て、なおもレースは続く。
コースは一部を除いて昔ながらの公道。
恐怖と、心理的圧迫の中、
ドライバーたちは命を賭けて、24時間身をさらす。
なぜ人はレースをするのか?
ル・マンは弾丸のない戦争に似ている。
優れた指揮官と、良く働く兵隊(メカニック)
最新の戦闘機と、勇敢で訓練されたパイロット。
世界最高のスタッフが戦略を練り、ライバル達と優劣を競い合う。
その面白さこそがル・マンの醍醐味であり、
理論通りに行かないところが、またほろっとさせる魅力なのだ。
~まずは個人的感慨~
1990年は私にとって、極めて大きなターニングポイントであり、最もモータースポーツに熱中した年であった。
とにかく忙しかった。
新年、テレビ朝日に移行したパリ~ダカールのスタート中継をやるため前年暮れからパリにおり、元日の早朝解説者となって出演し、マルセイユまで追跡。
その年は一年間、フジテレビジョンF1中継の冒頭のアバンタイトル(レジェンドドライバーの肖像)を執筆。
レギュラー番組「AUTO倶楽部」の構成・執筆・収録。
FM東京のADVANサウンドコックピットの台本のため国内レースを取材。執筆。
テレビ朝日系のF3000レースの中継の構成とアドバイス。
雑誌オートスポーツで「サーキット新・人物伝」執筆。
などがあり春から、国内レースの鈴鹿2&4、富士500キロ、富士F3、WSPC鈴鹿など取材して、5月はモナコ。6月再びヨーロッパにやってきた。
第58回ル・マン24時間レースのめくるめく日々がはじまっていく。
~影の冠スポンサーはNISSAN~
まず、なんと言ってもこの年は「NISSAN」に驚かされた。
ほぼ間違いなく大会の影のスポンサーになった日産はポスターやチケットのデザインも独占、ペースカーもフェアレディZ。そして出場するのは、なんと計7台のニッサン車。
詳しく取材できなかったが、かなりの金額が流れ、契約があったのは容易に想像できる。その出場車両であるが・・。
まず23号車が日本のニスモ。長谷見昌弘、星野一義、鈴木利男組のニッサンR90CK。
そして、鮮烈に今も記憶に残るのは、NME(ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ)の衣装(笑)。総監督、生沢徹さんのアイデアでスタッフは赤か青のベレー帽をかぶるというルール。車検場で見た時は衝撃的だった。クルマは24号車、25号車のニッサンR90CK。
さらにアメリカのIMSA-GTPシリーズで1-2優勝したばかりのNPT(ニッサン・パフォーマンス・テクノロジー)の83号車と84号車のR90CK。
ワークスは以上5台だが、この他に、和田孝夫、オロフソン、M・S・サラの3人がチーム・ルマンのメインテナンスによる85号車ニッサンRV(名称はティノラス・ニッサン)
そしてフランスのクーラージュ・コンペティションから出る82号車R89C。
以上7台である。ニッサン車の説明だけでくたびれてしまう(笑)
~ニッサンがポールポジション獲得~
結論を急いでしまうけど、このNMEの24号車(名称はYHPニッサンR90CK)のマーク・ブランデルが、3分27秒02のタイムでポールポジションを獲得。
2位のブルン・ポルシェより6秒も速かったが、わけがあって、エンジンのROMを変えたらターボのブースト圧が上がって、馬力が1100馬力くらいまで上がり、それで行っちゃった。ということらしい。とにかく速さはあった。
また特筆すべきは長谷見昌弘のドライブで23号車は3番手というポジションからスタートする。よく長谷見は「いやードライバーになって一番の思い出はグループCカーに乗って1000馬力を経験できたことだね」と言っていたが、この時期のことだろう。
(テレビ画面より)
さて、ニッサンの話ばかりしていられない。この年は5つのメーカーがたった一つの優勝を目指してやってきていた。
イギリスからはジャガーXJR-12が4台。率いるのはトム・ウオーキンショー。
トヨタは3台のマシン。36が「ミノルタトヨタ90CV」。37がタカキュートヨタ90CV。38がデンソートヨタ90CV。
この年、関谷選手が風邪で喉を痛めていたが、私が持っていたナショナルの携帯型の吸入器(飛行機の乾燥対策)をしばらく貸してあげた記憶がある。
マツダは3台。201号車アートマツダ787、202号車チャージマツダ787、203号車日本人トリオが乗るチャージマツダ767Bとなっている。
これだけではない。
日本企業がスポンサーになったポルシェが大量に出ていた。
ゼッケンの若い方からいくと9号車MIZNO(ヨースト)ポルシェ。
10号車高橋国光のケンウッド(クレマー)ポルシェ。
33号車武富士(シュパン)ポルシェ。
45号車アルファポルシェ。
55号車オムロン(シュパン)ポルシェ、
63号車日石トラストポルシェ(粕谷俊二)などがいた。
これだけの日本車、日本関係企業がいるとなると、ざっと見積もって1200人くらいの日本人がいて、テレ朝関連でも50人、ツアーできた客が50人。合計1300人はいたのではないだろうか。ちなみにテレ朝のゲストは、故川島なお美さんだった。
レーシングトラックの特徴としてはこの年、ついに6キロのストレートは廃止され、ユーノディエールにふたつのシケインができた。建設したのは日本の清水建設。ひとつ目のシケインは「ニッサンシケイン」とネーミングされた。
ピットはまだ昔のままであり、これは1990年から91年にかけて新築されることになった。だから「新シケイン誕生の年であると同時に旧ピット最後のル・マン24時間レース」というわけだ。
レースが始まるまで、チームは車検、予選、予選をやりつつ決勝用のセットを見つけていく作業になるが、中継を担当する我々は何をしているのかというと、車検場でドライバーの名前確認。車名をどうするのか? たとえば7号車をヨースト・ポルシェと呼ぶか、スポンサー名のプリマガスポルシェと呼ぶかなどを決める。またドライバーのヘルメットのカラーリングを確認し、乗り変わったときの目印にする(これはやるにはやったが、大人数いるので最後はぐしゃぐしゃ。覚えきれないのだ)あるいは夜の走行になったら、23号車は緑色の識別灯を点灯する。24号車は黄色、ミノルタは白点滅とか、識別灯を確認する。
さらにほぼ毎日打合せをして、特にピットに付くワイヤレスカメラには私も張り付き松苗アナウンサーがインタビュアー、東日本放送の布川ディレクターがひとつのチームで動き、ピットにおけるドライバーの表情、車から降りた直後のインタビュー、ピット裏の動きなどを、ワンカメショーで見せていこう。などと、演出を決めていく。

エントリーは54台。予選通過は53台。日本人ドライバー15人、日本車は13台。日本関係車両は19台。
晴れやかなスタート前のグリッドで、日産の町田収主管はこう言った。
「レースは劇場。ドライバーはアクター。本番は忍耐。普通のクルマで50万キロを一晩で走るようなもの。トラブルは起きるのが当たり前。それをいかに最小限におさえるかの勝負。馬の息遣い、馬の足なみを見ながら、人馬一体になって行きたい」
レースが始まった。
なによりポールポジションを獲得した24号車YHPニッサンのジュリアン・ベイリーはスタートから飛ばし、これにブルン・ポルシェのオスカー・ララウリが喰らいつく形でレースは進んだ。そして3周までトップを奪うと、燃費も考慮して2番手に下がり、ララウリがトップに立った。話は別だがこのアルゼンチンドライバーとは、馬が合い、私は仲が良かった。
ニスモヨーロッパの25号車はブレーキの不調や、オイルポンプ停止などで、フォーメーションラップを走っただけでリタイヤした。
1時間経過後トップはブルン・ポルシェ。2番手24号車ニッサン。
2時間経過後トップは再び24号車ニッサン。3時間経過後のトップも24号車ニッサン。しかし30秒差で2番手につけていた1号車のジャガーがトップに浮上してきた。
~亜久里が大クラッシュ~
スタートから4時間12分後、37号車タカキュートヨタは鈴木亜久里に代わった。そして亜久里はコースへ。
ここに3位走行中の24号車ニッサンが接近。
ドライバーのブランカテリは、亜久里の背後から抜こうとして接触。37号車タカキュートヨタは1コーナーで大クラッシュ。
亜久里は脳震盪を起こし、自力では脱出できず、マーシャルが助け出し、医務室から最終的に病院へ運ばれた。
一方の24号車ニッサンもタイヤを傷めたまま1周してピットへ。このため優勝を狙える位置から一気に2週遅れになってしまった。(こうしたつまらないアクシデントが優勝を逃す原因になるという教訓。最終的に24号車はミッショントラブルでリタイヤ)
~ニッサン対ジャガーで推移した~
代わって83号車アメリカチームのユニシアニッサンがトップに立ち、一旦はジャガーにトップを奪われるも、7時間目から10時間目までトップをキープ。
しかし3号車ジャガーが11時間目にトップを奪う。
この83号車ニッサンはそれ以後15時間まで2位にいたが、燃料タンクから燃料が漏れ出しピットイン。リタイヤした。和田孝夫の85号車もミッショントラブルと最終的にイグニッショントラブルでリタイヤ。
結局ニッサンで生き残ったのは冷却水漏れで2時間ピットにいて、17位で完走した84号車と、フランスのクラージュが走らせた82号車(ミッショントラブルで遅れ22位完走)
そして日本のニスモ23号車が、残り1時間半でミッショントラブルを起し、これに手際よく対応、鈴木利男が涙のフィニッシュ。日本車、日本人ドライバー史上最高の5位を記録した。
トヨタは、37号車が先のクラッシュでリタイヤ。38号車(デンソー)は水温上昇、ブレーキ振動、さらに追突され遅れ最終的にエンジントラブルでリタイヤ。36号車は地味に7番手に進出。23号車を残り3時間で猛追したが届かず、最終的にチャレンジ6年目にして6位を得た。
さてトップは3号車のジャガー。2位は16号車ブルン・ポルシェで推移していた残り15分。ジーザス・パレハがドライブ中にオイルラインがリーク。エンジンが焼きつき、コースサイドにマシンは停止。見ていたほぼ全員が「なんて可哀想なブルン・ポルシェ」と思った。これで2番のジャガーが2位に浮上。
チェッカーを受けられない16号車に順位はつかなかった。
12回目のチャレンジとなったマツダは、ジャッキー・イクスをコンサルタントに迎え頑張ったが、201号車は12時間目にパワーダウンしてリタイヤ。202号車は電気系トラブルからメインハーネス不調で15時間目にリタイヤ。
日本人トリオ(片山、寺田、従野)の203号車が20位。GTPクラスではトップであり、優勝し表彰台へ。なお片山義美はこのレースをもって現役を引退。片山7回目のチャレンジでポディウムに上がって、有終の美を飾った。
高橋国光のケンウッドポルシェは22位。
日本関係ポルシェではジ・アルファ・ポルシェが3位表彰台。
しかしながら、日本車の栄光はまだまだ、ずっと先のように思われ、1991年のマツダの総合優勝は、まったく予想できなかった。
レース終了後、テレビ朝日の小屋を出て、サーキット裏のしょぼい水道の水で、自分が使ったカレー・ライスの皿などを洗うとき「ああー今年も、ル・マンの全貌を上手く伝えられなかったなあ」と一人で思い、なんとなく涙を流していた自分がいた。