#わが心のル・マン #高桐唯詩 #チーム郷 #ル・マン24時間レース
20世紀は2000年いっぱいで終わり、21世紀がやってきた。
まず社会情勢で、この年を振り返ってみよう。
小泉純一郎が首相になり聖域なき改革が始っていた。
HONDAがFITを発売し、カーオブザ・イヤーを獲得した。
9月11日、アメリカの同時多発テロが発生。やがてアフガニスタン侵攻へと進んでいった。
ル・マンの周辺事情はどうなっていたのか?
NISSANはまったくいなくなった。社内はゴーン革命の真っ最中である。
TOYOTAは当時の奥田社長による「F1参戦発表」のあと、2001年にF1デビューするか?
2002年になるか、見定めていた時期である。(実際は2002年であった)

(2001年ル・マン、リザルトブック。AUDIが勝ちベントレーが3位に入った)
そういう状況の中「ル・マン24時間レースに参加して勝ちたい」
そう願っていた日本人は「もはや郷和道以外いない」と言っても過言ではなかった。
したがって、ここからのストーリーは郷さんが中心となっていくのはやむを得ない。
ただ、もう一方で「ル・マンに野心を抱いている人がいた」とすれば、
京都の「童夢」の林ミノルさんだった。
当時、童夢の技術部長であり優秀なデザイナーの奥さん(奥 明栄)が
1999年のル・マンに姿を見せていた。
その手には新しいスポーツカー(スポーツ・レーシングカー)のスケッチがあり、
オープン型で、なかなかカッコよかった。
口ぶりでは「どこかヨーロッパのチームが買ってくれるといいな」という印象だった。
さて2000年に「テレビ朝日チーム龍」で6位と8位になった郷さんであるが、
自分のチームで勝ったという気分ではなかった。
テレビ局の企画に乗って踊ってはみたけれど、心の底から満足したわけではない。
6位と8位。完走した事実は貴重な体験だったが、素晴らしい出来だったか?と問われると、
決してそうではない。やはり頂点を目指さなければ意味はない。
だから思い出はタンスの引き出しにしまって次に向かおう。それだけだった。
郷さんの頭脳はあの2000年の前後も「ル・マンで勝つためにはどういうマシンが必要なのか?」
それでいっぱいであって、その思いで脳はぐるぐる回転していた。
だから1988年には、ダララとも折衝し、次にBMWを訪ね最新のレースカーを買おうと努力したり、
アメリカのパノスともコンタクトを持ち、それこそ売ってくれるならTOYOTAのTS020だって
買って、出るくらいのつもりであった。
でも大手メーカーは自社で開発したマシンを、簡単に個人チームには出してはくれない。
「じゃあどうすればいいんだ?」そう思いつつ、童夢と話し合いするうちに、
「じゃあ最高のル・マンカーを作ればいい」という「やや、その時の結論めいた考え」にたどり着く。
1999年に郷が購入したBMWのV12LMRは当然、郷の手元にあった。(ここから敬称を略します)
売り手だったBMWは、99年型で優勝してしまったので、それ以後この路線は継承しないことに決めた。
それを嘆いても始まらない。
メーカーにはメーカーの都合があるのだ。

(1999年に戦った98年型BMW V12LMRは郷の手元に残った)
郷と京都の童夢はBMWの98年型マシンのディベロプメントを、
「童夢」でやることにして99年に一回だけ国内で1000キロレースを闘い3位に入った。
これはすなわちBMWのV12LMRはどういうクルマなのか研究するというところもあり、
また既存のこのクルマにどう手を入れればより速くなるか、という開発だった。
その一方で童夢では2000年から2001年にかけてS101が完成した。
シャシーはかなりのポテンシャルがありそうだったが、エンジンをどうするのかが未解決だった。
だから当初はBMWのV12の重たいエンジンを積むことも考えた。
またTOYOTAのエンジンを使わせてもらう話も、なくはなかった。
ついで、ジャッドエンジンを使うこともトライし、実際それで2001年のル・マンを戦うことになって行く。
さらに童夢側の誘いで無限が、スポーツカーエンジンの開発に入った。
これらに関して、いつ、誰が、何を、どうしたかを正確に記す自信は僕にはない。
さまざまな人がさまざまな思いで、動き、「さまざまな都合で、転がって行った話」というしかない。
その結果、とにかく2001年はジャッドの4リッターV10エンジンを積む以外なかった。
郷和道(のレーシング会社)は童夢S101を2台購入し、ル・マンへの準備に入った。そして、
2001年春先にジャッドエンジンを載せ国内でテストした。
でも「このジャッドエンジンで24時間持つのか?」と、郷はあまり乗り気ではなかった。
そんな気持ちや、自分がコントロールできる状況がうまく作れなかったこともあり、
チームとしてル・マンに臨む気が薄れていった。
だから、エントリー名はチーム郷だが、バン・デン・エイビスのチームに貸し出すという形を取り、
カーナンバー10に、ジョン・ニールセン、加藤寛規、C・エルガードの三人が乗った。
(荒聖治を乗せたかったが叶わなかった)
もう一台の童夢はカーナンバー9。「チーム・フォー・ホーランド」(オランダ国のためのレーシングチーム)
でヤン・ラマーズ他全員オランダ人のチームの体裁になった。

(チーム・フォー・フォーランドの童夢2002型模型より)
郷はその当時、広尾にオフイスを構えていた。マンションではなく、大きな一軒家が連なった形の
テラスハウスであり、3階の書斎見たいな部屋に、郷のデスクがあった。
南の空が見え、羽田を飛び立つ飛行機が見えそうな景色が広がっていた。
2001年の春、オフイスにいるとフランスのオレカチームから電話が入った。
「だれか日本人ドライバーはいるか?」という。
「近藤真彦と、荒聖治はどうか?」というと「荒なんて知らない」という返事だった。
ちょうど、たまたま、そこに荒がやってきていた。
「荒君。明日ポールリカールでオレカがテストするというんだけど今から行く?」
と聞くと、荒は「はい行きます」と言った。
(荒聖治のル・マンデビューはオレカ・クライスラーLMPからだった)
そのまま、ヘルメットやグローブ、レーシングスーツを詰め込み、フランスに旅立つと、
翌日、マシンのセッティングから、アタックから任され、良いタイムをたたき出す。
こうして荒のル・マンデビューが決まり、オレカに乗ることになった。近藤真彦は、
2000年の実績がありオレカも大歓迎だった。
こういう形で2001年のチーム郷は、「隠れチーム郷」のような雰囲気でル・マンに
出演していったわけである。それだけでも数億円は使ってしまった。
常人の理解を越えたこの行動は、資産があり、小学生時代からロケットの制御とか、
無人の模型の船でアメリカまで行かせるコントロールを考えるほどの郷だからできる行動であり、
「ル・マンで勝つにはどうすればよいのか」を常に考えた結果である。
ただ、2001年の体制では絶対に勝てない。オペレーションもデンマークとオランダに任せた。
チームのドライバーである荒君はフランスチームに任せた。だから郷自身はテレビ朝日のゲスト解説を
引き受け、メディアの立場で現場に臨んだのである。

(2001年ル・マン エントリー表)
この年(2001)日本のプライベートエントリーは、
千葉泰常ひきいるチーム・タイサンがGTクラスにポルシェで参戦。
実は2000年のレース結果が繰上げ優勝となり、1年遅れの表彰があり、2001年の実戦に
入っていった。ドライバーは、福山英朗、余郷敦、西沢和之というメンバーだった。
(タイサンもポルシェで2年連続出場)
ミスタール・マン、寺田陽次郎は、23回目の出場。クルマはWRプジョーだった。
さらに松田秀士がディック・バーバーチームのレイナード(LMP275)に乗った。
そうして2001年の第69回ル・マン24時間レースは始まっていくのであった。
この項 了。