2002年のル・マン24時間レース。チーム郷の戦いについては、私の小説「勝利のルール」~ル・マンを制した男、郷和道~(WAVE出版)の中でも描写している。
また当時の「週刊オートスポーツ7月4日号」にもレポートを載せた。
今回はオートスポーツの記事をもとに、もう少し丁寧に、2002年のレースを書き下ろして、振り返ってみたい。
【すべてを自前で。郷の理想に一歩近づく】
2002年6月11日、 ル・マンのパドックは静かだが、緊張感が漂い始めていた。
「普段と同じですよ。日曜の午後4時が大事。ただ少し花粉症気味です」と加藤寛規が、ポーカー・フェイスで鼻をこすった。
荒聖治は昼食のラザニアを食べていた。ヤニック・ダルマスは、日韓で開催されたワールド・カップ・サッカーでフランスが負けたせいかちょっと不機嫌だった。
そんなチーム郷だが、万全の準備を整え、気負うことなく今年のル・マンに臨んでいた。
「2000年にテレビ朝日と大きなプロジェクトをやり、日本と英国メカのジョイントでは最大の成果を収めました。去年は童夢でジョン・ニールセンと共同でやりました。そこで学んだことは、ジョイントでもトップ6に手が届く。じゃあこの上に何があるのか? 今までと同じでは意味がない。企画として後退するのも悔しい。悩んでいた去年のある日、ル・マンはもうやめようかとも思いました」
チーム代表の郷和道は、そのように語り始めた。
「しかし、これまでのノウハウ、経験を捨ててしまうのはもったいない。そこでアウディ・ジャパンさんの協力で、ご存知のようにクルマを早めに手に入れ、自分たちでコントロールできる体制を整えていきました。トップ6は経験した。その上を狙うには、私がチームを掌握することが一番だと考えたのです。事実それに近い体制と戦略ができました。あとはミスなくやれば表彰台は見えてくると思っています」

「ヤニック・ダルマスが加わって、だるまを用意したチーム郷」
チーム郷は、ル・マンに備えて総勢8名の腕利きメカニックを常時雇用した。
自分でコントロールするということは「ヒト・モノ・カネ」を自分で集めなさいということだ。郷は全て自分でまかなった。ではチームとしての終着点はどこにあるのだろう?
「スポーツカー・レースの頂点で、世界に通用するチームを作りたいと思っています。これだけのものを揃えるのは今しかできないし、今年と来年で成果を収めないと、なーんだということ(あきれられること)になってしまいます。」
郷和道は、自分自身に厳しい目標設定を課していた。
6月12日水曜日午後。天候は徐々に良くなってきた。19時からの最初のセッションの走りはじめを、インディアナポリスコーナーで待ち構えることにした。加藤寛規が颯爽とコーナーを抜け、目の前を、またたく間に過ぎ去ってゆく。

「Photo by Tadashi Takagiri 走りはじめはインディアナポリスで待ち受けた。マシンもコースもきれいである」
このセッションは加藤寛規、ダルマス、荒聖治がそれぞれ7ラップずつ走り、セッティングの確認をする。そして余裕があれば、荒が、Qタイヤでアタックに行く予定だ。
このセッション前に、荒に聞いた。
「アタックを任せられ責任は重大ですが、任せてもらって嬉しく思います。去年途中でリタイヤしレースの良さをまだ味わっていないですし、悔しさの方が大きいんです」
荒は、2000年にテレビ朝日の「チーム龍」のメンバーに選抜されながら、その後体制が変わって乗ることができなかった。
「あの時も悔しかった。走れなかった悔しさを今年は取り返したい。」
荒にアタックを任せることは、随分前から決定していた。
加藤はパノスでアタックの経験があり、今回は荒に大舞台でのアタックを経験させることがチームの方針だった。
セッション終了前、そのチャンスは訪れ、荒はQタイヤ(予選用タイヤ)を履いてコースに出た。しかしダンロップ・ブリッジ先で、目の前にいたフェラーリがスピンしたため、急ブレーキで避けた。そのためアタックは不発に終わった。
「いやー、3分32秒には行きたいんで明日またアタックします」セッション後、荒はそう語った。
チーム郷のタイムは、燃料が多く入った状態で加藤がマークした【3分38秒129】が刻まれて、暫定7番手にいた。
12日の日没がやってきた。
加藤が走り終えてミシュランタイヤの出原エンジニアにリポートした。リアタイヤにやや不満があるのだろうか。そんな会話だった。
「ほぼセッティングは出ました。微調整はしなければいけませんけれども」と、加藤は私に語った。
夜が深くなり、チーム郷の5号車はダルマスがドライブしていた。
全員でモニターを見ながら、笑顔がこぼれていた。
郷和道が目指すチームの結束が出来つつあり、いい雰囲気が立ち込めていた。
その時だった。ダルマスから無線が入った。
「当たった!クラッシュした。フロントがなくなった。第一シケインだ」
チームは青ざめた。4度の優勝を誇る名手、ヤニック・ダルマスの思いもかけないクラッシュだった。
のちに郷が説明してくれたが、「リア・ウイングのフラップに何かが当たって、破損し、荷重がフロントへ行って、ブレーキングと同時にスピンしたようです」
セッションが終わりレッカーで運ばれた傷ついたマシンを前に、メカニックの宮田雅史は覚悟した。
「徹夜だ」
【インフェルノ。もっと不運が襲いかかる】
翌6月13日。ル・マンは気温が上がり始めていた。
チーム郷のマシンは、大事をとって一日かけて、モノコック以外の部品をすべて交換。さらに夕方になってから、アライメントを取る作業が続く。時計の針は、予選開始まであと5分になってしまった。
「時間がかかりそうですね」と私が聞くと、
「ええ、まあ、でも。今、出て行っても仕方がないし・・・」と郷が、気まずそうに答えた。
19時。2日目のセッションが始まった。
すべてのマシンが轟音を立ててコースに入って行く。チーム郷の5号車は取り残された。
ヤニック・ダルマスの目がギラギラとかがやき、何かを訴えるかのようだった。
19時30分。クルマにタイヤがついた。
ダルマスがグローブをつける。19時35分、ダルマスが待ち焦がれたように出発していく。
一周して、頭からガレージに入って、マシンをチェック。さらに連続走行に向かってコースに出た2周目にとんでもない事件が起きた。
電気の配線がショートし、コース場にマシンが止まってしまったのある。
アタックするところではない。クルマが走れないのだ。完全なクライシス(危機)であった。
メインの配線が燃えた。ECU(エンジン・コントロール・ユニット)まで燃えたと言う。ショックだったのはヤニック・ダルマス本人だ。
電気のショートなのに、レーシング・スーツの腕の部分が焦げた。そんなことは初めてだった。
クルマは、21時のインターバルにピットへ運ばれてきた。
この重大なトラブルにドイツのアウディ・ワークスも慌てた。
「もしも同じトラブルがワークス・マシンを襲ったらとんでもないこと」そんな思いがあるからだった。
チーム郷のピットでは急遽やってきた「ワークス・アウディ」のメカニック達が腹ばいになって必死に電気系統の修復にかかる。
時間は刻々と過ぎていく。荒聖治もどうしようもないと言った表情で立ち尽くす。
郷は「考えられないトラブルです」とため息混じりにつぶやく。
加藤はたった一人で誰もいないサインガードのビール小屋にポツンと座っていた。
「眠かっただけですよ」とうそぶいたが、内心怒っていた。怒っても仕方がないことはわかっている。でもなぜ、うちだけがこんなトラブルにあうんだという思いが渦巻いていた。加藤はアンラッキーなことは忘れよう、気持ちを切り替えようと努力した。
ワークス・メカニックの賢明な修理でとにかく走れる状態になった。そこで荒の夜の義務走行をこなすため3ラップして、この日は終了するしかなかった。
明日の〝金曜いちにち″は「完璧な修理の日」にして、ぶっつけ本番で決勝に臨むしかない。チームの予選順位は15位。これ以上のアタックはもう不可能なのだ。
全体のポールポジションは②号車のアウディ(3分29秒905)
2番手は1号車のアウディ(3分30秒219)3番手も③号車アウディである。

「Photo by Tadashi Takagiri 2号車ワークス・アウディがポールポジションを獲得した」
6月15日、ル・マンは快晴。決勝の朝を迎えた。
ウォーム・アップでは無理をせず「信頼性確認」に終始していく。
「大丈夫だと思います。最初の2スティントが OK ならあとは行けるでしょう。荷造りと同じで最初が肝心。ただメカニックがあまり寝ていないので、それが一番の心配です」郷が語った。
宮田雅史を始め、片瀬、黒田、岡江、池田 メカニック達は、今はまだ元気な顔でいる。髭が濃くなった宮田に「昨日は寝たの」と聞くと「爆睡しました」と力強く笑った。
午後4時。第70回ル・マン24時間は一斉にスタートが切られた。
2号車のジョーニー・ハーバートが飛ばしていく。1号車が追う。3号車アウディはいきなりパンクが発生した。
一周して加藤は12番手でコントロールラインを通過した。
コンド―・レーシングは20位で通過。右京は18位。
加藤寛規は4周目、9位に上がった。30分後には7位。
着々と順位を上げ3位で1回目の給油。2スティントをこなしてダルマスにクルマを託した。
「どうもこうもない。ちょっとタイヤの選択が狭いかな。ラップタイムは気にしてません。とりあえず2スティントずつ行ける」クルマを降りた加藤はそう語った。汗もあまりかいていなかった。

「Photo by Tadashi Takagiri チーム郷はトラブル続きだったが、なんとか決勝に駒を進め、上位を目指していた」
ダルマスに代わってチーム郷は4位にいる。タイムは3分47秒台で加藤より遅い。そのタイムを指摘すると、郷は、
「いや、ワークスのタイム38秒というのが異常なんです。ル・マンの勝ち方を知っているのはダルマスの方です。彼は慎重に行ってます」と語った。
ダルマスの後は、荒が乗って2スティント。 3分45秒台ペースだ。
「路面が最悪。ペースが落ちてもいいから、レコードラインを外さず(大切に)走った。ちょっとでも ラインをはずすと、ぐにゃっとなる。タイヤを壊さない走りが必要です」
しかし、もう一度加藤が乗った21時過ぎに、ステアリングの異常が発生した。水漏れも確認された。チーム郷は直ちに安全策を取ってラジエターの交換に入った。順位は見る見るうちに落ちて行った。ピットに佇むこと32分、順位は20位。
決勝日の深い深い闇がル・マンを包み込んだ。
ユノディエールで MG が火災を起こし23時49分、セーフティーカー走行になった。
チーム郷はここで加藤に4スティントの走行を命じた。
さらに深夜2時にも、コース上のオイルを除去するためセーフティーカーが入った。順位は11位まで挽回。明け方にかけては荒が担当したが、雨が落ち始めた。
荒は「どうして自分のところで雨になるの?」と思ったが、苦労したメカニック達の顔を思い出しながら、頑張って走った。
朝5時30分、荒から加藤に交代。チーム郷は9位。
加藤はワークスと同じラップタイムを刻んでいた。
「あのトラブルさえなければこんな順位にいない」加藤のモチベーションの源は怒りだった。やがて7位まで上がってきた。
じりじりとした心理戦が続く。ベントレー5位、6位のオレカも頑張っていて、それ以上順位が上がらない。
結局順位はそのままで日曜日16時のフィニッシュとなった。
最後は予定していたダルマスではなく、荒聖治が乗った。
チーム郷は完走の喜びに沸いた。
しかし、郷和道は、涙など流さなかった。
「完走できないよりは、完走できてよかった。来年は絶対にお立ち台に立ちます。我々は一年生です。良い経験になりました。」
加藤も至ってクールだった「やった甲斐はあったと思います。しかしあのトラブルがすごく残念。せっかく3位まで上がってこれからだ、という時に、あんなトラブルが出て悔しい。ラジエターから少しずつ水が漏れていたみたいで、僕が2回目の走行に入った時、漏れる水をタイヤで踏んでいたので右がアンダー、左がオーバーでした。警告灯も付き、それでチェックしてもらったんです。最初は5分10分で修理できると思いましたが30分以上になった時には「これは何かないと前には追いつかないな」と思いました。アンラッキーが続いた予選からの流れを考えると完走できただけでも御の字です。一番大変だったのはメカさん達だった。彼らの頑張りがあったからこそ、完走できました。(メカの)みんなが喜んでくれて良かった。」
荒聖治は、コースマーシャルの祝福のフラッグに迎えられてゴールした。
「感激です。ヤニックがクラッシュして暗い顔をしてたことやら、メカニックのみんなの顔が浮かんで、泣きそうになりました。でも表彰台の横を通るたびに悔しくて今度こそ絶対に上がってやるんだと思ってました。全体を振り返ると予選初日のクラッシュはヤニックに怪我がなくてよかった。事故は自分にも起こりうる可能性があるし、ちょっとナーバスになりました。2日目もトラブルがあって予選を戦えなかったのはやっぱり悔しかったです。決勝は自分のペースで無理せず、3スティントで走り良いペースでこなせたと思います
。でもやっぱりル・マンは甘くない。良い体制で望んでも簡単にはいかない難しいレースだということを改めて感じました」
騒がしいピットで冷静なダルマスを捕まえた。
「2月からチーム郷に入ったことは、僕にとってもチームとっても貴重な経験でした。来年に繋がるでしょう。ル・マンは3位で喜ぶのは簡単。でも優勝するにはものすごく努力が必要なんです」
2002年のル・マン24時間レース。「Audi Sport JAPAN Team GOH」は、7位でレースを終えた。
優勝はビエラ、クリステンセン、ピロ組のアウディ1号車。2位がカペッロなどの2号車。3位が3号車。アウディのワン・ツー・スリー・フィニッシュとなった。

「Photo by Yasushi Onishi 優勝は1号車アウディ。2位もアウディ。
3連覇達成」
郷和道は語る。
「完走できたことはうれしいです。我々には経験という財産が出来ました。ヤニックさんには、チームが一つになる大切さを教えてもらいました。全部自分のチームでやったのは初めてのこと。まとまりが出来てきたと思います」
片付けが始まったピットで、アウディ本社のとある人物が郷和道に近づいてきてそっとささやいた。
「来週東京で打ち合わせしましょう。電話します」
チーム郷の2003年プロジェクトがもう、そこでスタートしていた。
以上でチーム郷の2002年レース回顧は終わりです。
ほかのチームに関しては下編を作って、また発表します。
この項 了。