日本におけるル・マンのパイオニアがいる。
加藤眞さん。73歳。
現サード株式会社取締役会長である。
1973年、加藤さんは、日本人として始めてル・マン24時間に挑戦した。
しかも国産・自社製のシグマMC73、エンジンはMAZDAのロータリー。
彼が31歳だった頃の話である。
シグマは1974年にだましだまし、初の完走。
1975年も出たが、完走できなかった。
初の挑戦から21年後、加藤さんは、ル・マンのピットで、
1位を走る自分のクルマ、デンソー・トヨタ94C LMを見つめていた。
ゴールまでほんのわずか。あと1時間半で優勝できるはずだった。
だが、マシンは、ストレートエンドで止まった。
ささいな部品のトラブルだった。
加藤眞と、アーバインたちの野望は砕かれた。
亡きラッツェンバーガーに捧げるはずだった勝利は、はかなくも消えた。
だが、渾身のリカバリーで、なんとか2位。
ほろ苦い栄光。悲しい年の、熱い思い出のレースだ。

(写真はすべて菊池一仁氏 ※無断転載を禁じます)
~サードのこと。外国人ドライバーのこと~
加藤眞さんは1941年生まれ。父親はトヨタ自動車販売(当時)の社長にまでなった人である。
学生時代、将来はアメリカでレースをするつもりでいたが、「トヨタもレース活動を始めるから、トヨタに入れ」という父の勧めで入社。
市販車の研究、パブリカやカローラの開発を経て、トヨタ7などレーシングカーに携わり、富士GCシリーズの原型作りにも貢献した。
当然のこととして、当時の技術者の夢は「いつかはル・マン」であったが、トヨタは1970年でワークス活動をやめてしまう。
「じゃあ自分で挑戦してやろう」と会社を辞め、1972年11月に作った会社がシグマ・オートモーティブであった。
1972年暮れ、加藤氏はマツダ・スピードの故・大橋孝至氏とル・マン市を訪ね、ACOの役員にどうすれば出られるか? 教えを請いに行った。
この時、同行したのが、今は退職した報知新聞の中島祥和記者である。
加藤、大橋、中島。まだ若い3人はシャルトルの大聖堂を見学しながら、氷の国道をル・マンに向かった。
(これは中島氏の原稿より拝借。オートルートはまだ、フランス全土に網羅されていなかった)
1970年代のチャレンジから10年。加藤は国内レース、ル・マンへの挑戦。クルマのチューニングパーツ開発やその他の事業開発などのため、サード株式会社を発足させ、1989年ル・マンへの再挑戦が始まった。
前年(1993)のル・マンでは、サード・レーシングチームの22号車は総合5位。 旧Cカーのターボクラスではトップ(クラス1位)という堂々たる戦いぶりだった。
その時のドライバーは、ローランド・ラッツェンバーガー、長坂尚樹、マルロ・マルティニである。
ル・マンの旧市街に「エトナ」というイタリアンがある。(今は、ないらしい)
私が、ちょっとイタリア語を喋ったら、店主はそれ以来、いつもイタリア語でまくし立てて閉口したが、そのお店に行くと、いつもマウロ・マルティニや、クロスノフや、ラッツェンバーガーがいて、にぎやかだった。
当時80年代後半から90年代にかけて、日本のF3000で活躍した外国人たちは仲が良く、エディ・アーバイン、フォルカー・バイドラー、ヤン・ラマーズなどが日本で、走っていた。
その仲間であったローランドが、F1サンマリノ・グランプリで世を去った。
セナの死を含め、悲しい事実だが、ル・マンはF1とはまた別の顔をしていて、「元気に頑張るぞ」という空気に満ちていた。
サードは、マシンにラッツェンバーガーの名前も書きこみ「一緒に走っているよ」という意志を表していた。日本風にいえば弔い合戦だった。

~レギュレーションの妙。不利なTOYOTA勢~
トヨタ・チーム・サードが走らせる「デンソー・トヨタ94C LM」はプロトタイプのLMP1のクラス。90年までのグループCカー規定に添ったものだが、厳しい制限があった。
馬力は550馬力まで。最低重量は950kg。燃料タンクは80リットルしか許されず、頻繁にピットインしなければならない。
ピットレーンの制限速度は80キロあり、ロスタイムも大きい。
これに対して、今年から主流のGTクラスに、とんでもないクルマがいた。
最低生産台数1台。エンジン出力650馬力。最低重量1000kg。燃料タンクは120リットルまでOKというジャンルだが、ここにダウアー・ポルシェというCカーのそっくりさんがいたのだ。
「販売している市販車ベースですよ~」というが、どうみてもCカーのポルシェだ。しかも120リットルタンクだから、ピットイン回数は少ない。
レギュレーションの隙を突いて登場した、隠れワークスGTもどきといってよかった。

予選ではクラージュ・ポルシェC32がポールポジション。ドライバーはアラン・フェルテ。ラップタイムは93年より30秒近く遅い3分51秒05。
サード・トヨタは予選4位。ドライバーはマルティニ。
ジョーダンF1の現役だったエディ・アーバインは、クロスノフにも負けるチーム3番手タイムで、ぼやきまくる。
~決勝。サード・トヨタはル・マンをリードした~
1994年6月18日。11時からのウオームアップでIMSA GTPクラスの76号車NISSAN 300ZXがインディアナポリス・コーナー手前で炎上。
決勝に向けて暗雲が立ち込めた。このマシンには粕谷俊二が乗る予定。直ちに修復作業に入った。
46台がフォーメーションを済ませ、スタートした。
ガルフ石油カラーのクレマー・ポルシェ、デレク・ベルがトップに立つ。
2位はクラージュ・ポルシェのフェルテ。
ユーノディエールを行き、第2シケインで、フェルテが、ベルを抜いた。
3番手にシェルの貝殻マークをつけたダウアー・ポルシェが来た。
そのうしろ、4位がサード・トヨタ。
1周目の順位は上記の通り。だが、すぐにサード・トヨタが、ダウアーを抜いて3位に上がった。サードのドライバーはマルティニである。
サード・トヨタは10周してピットイン。これはほぼ40分走って、一回ピットインというローテーション。
タンク容量が大きいダウアー・ポルシェは、まだコースにいて、1時間走ってピットインするペースだ。
したがって1時間経過後トップは、35号車ダウアー・ポルシェ。そして2位がサード・トヨタになった。
アメリカ人のダニー・サリバンがドライブしていた35号車ダウアーは、18時50分頃スローダウン。パンクとバースト。これでやや遅れていく。
19時のラップチャート、トップは1号車サード・トヨタになった。2位には36号車ダウアー・ポルシェ。
1994年のル・マン24時間レースはスタート3時間後にTOYOTAがトップに立ち、レースをリードするのである。

~チームニッポン、近藤真彦のル・マン~
マッチがはじめてル・マンに来たのは1987年のことだった。
難波靖治さんの招きで、NISSANのバルコニーで応援した。
NISMOの青いジャンパーももらった。
でも、マッチは(そのジャンパーは)本物じゃなく借り物だと思っていた。
いつしかル・マンを走りたい。そんな思いでいた。
1994年、その機会がやってきた。
原田淳とその父が進めたチーム・ニッポン・ポルシェ962に乗ることになった。
マッチこと近藤真彦の動機は、自分が大人になった時に「実は俺、ル・マン24時間に出たことがあるんだよ」と“プチ自慢”することができればよい。
そのために、とにかく1回くらい出たい。という気持ちであった。
(かつて、私がインタビューした時、そう答えてくれた)
マッチはF3をやっていたが、レーシング・ポルシェもル・マン初めて。
星野一義に相談したら「危ないから、やめな」だった。それでも、出た。
原田がスターターで、ピットからスタートし、16時43分、吉川にとみ子に交代。次にマッチ。最初は1スティントずつ行ったが、チームメートに疲れが目立ち、かなりの部分をマッチがやることになる。
実は1995年マッチはGTRで本格的にル・マンを走るが、この年のこの走行で相当、ル・マンに、はまったと言える。
「ル・マンに1回、出たことがあるんだよ」という自慢どころか、反吐が出るほど、ル・マンを走ることになるのである。
この年、電気系トラブルでストップ、修理して最後にチェッカーを受けるが、完走扱いにはならなかった。
~TOYOTA連合頑張る~
1号車サード・トヨタは、マルティニでスタートして2スティントをこなし、17時35分クロスノフへ。
クロスノフも2スティントやり19時09分アーバインへ。
この段階でもトップを守っている。
4時間目、時刻は20時、アーバインがピットで給油した関係で、もう一台のトヨタ、4号車ニッソー・トラスト・トヨタがラップチャートのトップに躍り出る。あまりメディアには取り上げられないが、大川光一氏率いるトラストも手堅い。23時までトップをキープする。
スタートから8時間、午前0時サード・トヨタ再びトップへ。2位はトラスト。日本車がワンツー。36号車ダウアーはドライブシャフト交換で遅れた。
午前1時トラスト・トヨタがトップ。午前2時、午前3時、午前4時、午前5時、そこまでトラストがトップで、サードが2位。
こんなすばらしいTOYOTAの進撃はなかった。
できればもっともっとお祭でもよかったが、まだ深夜だ。

朝5時52分アーバインまた2スティントへ。ここでトップが入れ替わる。
6時のラップチャート、カーナンバー1サード・トヨタがまたトップだ。
トラストはミッションのトラブルで振動に悩まされ始めついにトランスミッション交換。50分以上を要した。
1周遅れてカーナンバー35のダウアーが2位である。
ミッション交換したトラスト・トヨタは5位。まだゴールまで9時間。激しく追いかけ始めた。
17時間経過の朝9時。
35号車ダウアー・ポルシェのサスペンションが折れた。でも速いリカバリーを見せる。
朝10時、6号車チームニッポンのポルシェはいよいよ動かなくなる。
リタイヤするのか?或いは最後だけ走るのか?
そして正午が来た。
デンソー・トヨタ94C LM通称サード・トヨタは磐石の1位。
2位の36号車ダウアーには3分以上の差をつけた。
コース上に生き残っているのは24台。半数以上が消えた。

~ああ無情。シフトリンケージの溶接が~
午後2時。
加藤眞は、ピットガレージに作った台座の上、机を前にして、じっと我がクルマを見つめていた。
笑わない。軽口を聞かない。
やはりレースを知る知将である。
すべて終わるまでは何があるかわからない。それがレースの鉄則である。
そして時刻は14時22分、クロスノフがストレートを通過したところでシフトアップができなくなり、ホームストレートでクルマを止めた。
クロスノフは降りてきた。リアに回って、手を突っ込んで何かしている。
そうシフトチェンジできないから、自分で5速に入れて、5速のまま1周してピットに帰ったのである。
これはクロスノフのファインプレーだった。
この応急手当がなかったらリタイヤしていた。
1周して帰り、ピットでシフトリンケージの修理。
その間に、カーナンバー36、ダルマスのダウアー・ポルシェがトップに立つ。5分後35号車のブーツェン組ダウアー・ポルシェが2位になる。
サード・トヨタは3位に落ちた。
そこからアーバインは猛追撃を開始した。
前を行くブーツェンのポルシェを追いかける。
スタンドはTOYOTAを応援する声。
レース終了10分前、アーバインが2位にあがった。ブーツェンが抜かれた。
ブーツェンもあきらめない。もの凄い2位争いが続く。
そしてフィナーレ。
コースマーシャルがコースに出て、満艦飾の旗を振る。
アーバイン逃げる、ブーツェン追うが、人がいて危険。
この2台の差は1秒でレースフィニッシュ。
勝てたはずのデンソー・トヨタ94C LMは悲劇の2位フィニッシュ。
レギュレーションの隙を突いたGTカーもどきのCカー、ダウアー・ポルシェが優勝を飾り、ポルシェは通算13回目のル・マン勝利。

加藤眞にとって、ル・マンの勝利は「遠すぎた橋」
ゴールのピットウオールに立ちながら、マルティニ、アーバイン、クロスノフの貢献に感謝しながら、それでも、悔しくて、悔しくて、涙を流し
「残念です。残念です」と唇をかみ締めた。
もう言葉は要らない。
サードは十分戦ってくれた。
リンケージが折れたのは、はっきり言って「予算のせい」だ。
それをなげいてもはじまらない。
1974年当時、若い加藤眞が言っていたのは、
「ル・マンで怖いのは振動です。ユーノディエールのストレートを走ると、やがて、クルマに振動が出始め、それがボルトを緩めていく。やがて大きなトラブルに繋がるんです」
あれから20年経ったル・マンで、回転する部品ではないが、シフトリンケージが折れた。ル・マン22時間22分の振動が、優勝を逃す最大要因になってしまった。
加藤眞は翌年GTカーでまた挑戦するが、もう1994年ほど、優勝に近づくことはなく、最近は、自社で大きくル・マンに挑むこともない。
でも、私は信じている。
加藤眞氏は、絶対、もう一度、ル・マンにやってくるはず。
その時節をじっくりと見ている、と私は思う。

レース後、皆で、ザルツブルクのラッツェンバーガーのお墓に参ったこのファミリーたち。
やがてジェフ・クロスノフまで命を落すことになるとは、ファミリーの誰も、そして、この私も想像すらできなかった。
ありがとうラッツェンバーガー。
永遠なれジェフ・クロスノフ!
了。