わが心のル・マン28年史 その37 2002年前半「アウディR8を手に入れたチーム郷はまるで5000M級のベースキャンプを設営しエベレストの頂上を目指す勢いだった」

  1999年にデビューし開発が進んだアウディR8 は、2000年と2001年にル・マンで2連勝していた。R8は圧倒的に早く整備性の良いマシンだと評判になった。
 アウディ・スポーツは、従来型の「車を持たせるル・マン」ではなく基本的に攻めて攻め続け、もしトラブルがあっても迅速に直し、とにかくコース上を早く長く走る戦法で勝利を手にした。
 ル・マンではトランスミッションが壊れるケースが多い。それならば、壊れることを想定してリアのアッセンブリーすべてをごっそりと取り換えればよい。そういう革命的な考え方で臨んでいた。
 2001年に、童夢 S 101を2台 隠密スポンサーとして走らせた郷和道は、2002年のル・マンに出るとすれば、このアウディ R 8手にするしかない。。コース上での速さは、群を抜いている。今のル・マンではアウディは最強の戦闘機だと強く思った。

 物語は2001年のル・マンが終わったあとのパリ。シャルル・ド・ゴール空港のラウンジで始まる。
  郷はここでアウディ・ジャパンの広報にいた鞆安祥之と出会った。
郷自身は国内でずっとフォルクス・ワーゲン・ゴルフのレースをしてきた。一緒にいる荒聖治もゴルフのレースをしていたしF 3時代はアウディの車磨きのアルバイトもやった。
「僕たちはみんなアウディ・フォルクス・ワーゲンの仲間だね」と盛り上がるうちに「日本のアウディチームを作りましょうか」という話になった。
そこから2002年のプライベートアウディの戦略は、始まっていった。

時を同じくして、 アウディ側 も日本との関わりを築こうとしていた。
郷和道は帰国するとアウディ本社との交渉を始めた。両社は2001年の暮れには、
ほぼ契約が終わって、郷和道はついにアウディのスーパーマシンを購入した。


「アウディ・スポーツ・ジャパン・チーム・ゴーのR8 ついに勝てるマシンを手に入れた。Photo by Tadashi Takagiri。ピンボケ失礼もう少しましなのは決勝用で紹介。」


郷が手に入れたのは2001年モデルの R 8-501だった。501はテストカーとして作られ2001年夏のノースポートでのレースで一回走ったきり再びモノコックが交換され、スペア・カーとなっていた。つまり、走行距離が短いクルマだった。

 アウディ・スポーツとの契約の中にはメカニックがインゴルシュタットの本社で研修を受けることが義務付けられていた。それに伴い、2001年から、スタッフをドイツのインゴルシュタットに派遣しマシンを学ばせた。
 郷和道はできることならポールリカールを借り切ってテストを繰り返したい。そのくらいの勢いだったが、チーム郷はコンストラクターズではない 。あくまでもレーシングチームだ。そこまでのマシン開発をやるのは、さすがに過剰と言える。
 だから、テストは日本で行うことにした。

 2002年に入ってすぐ、アウディ R 8は国内に搬入され2月の19日から美祢サーキットと富士スピードウェイにおいて延べ14日以上のテストを行うことになった。これには美祢サーキットが全面協力し、8000キロ以上の走行を予定していた。ただ冬のことゆえ、タイヤが発熱せずテストは完璧とは言えなかった。

郷は語る。
「私はもうクルマを手にいれただけで大部分が揃ったような気がして、強引に2002年の参戦を推し進めました。これで思い通りのレースができると・・・。そして日本で大々的にテストをしましたが、実は大失敗。気温が低すぎて、あうタイヤがない。それはともかくこの辺から、アマチュア型のレースではもうだめだろということが見えてきました。でも僕の気持ちの中には、まだ持たせるレースが残っていて、これを払拭するには時間がかかりました」

 これが2002年の初頭の話であった。

 さてドライバーはどうするのか?
 戦闘機としてアウディの R 8は申し分のないものである。
メカニックもドイツで腕を磨き、 例えばリアアッセンブリーの交換など緊急事態にも対応できるようになっている。
 ドライバーはレーシングトラックの上を最高のスピードで戦える人物が必要だった。しかし日本のドライバーの多くが、メーカーに所属する身分であり、郷和道が指令を発する立場にはない。まさに余地はなかった。
 だからチーム郷所属のドライバーが必要だった。
 その一人は加藤寛規、もう一人は荒聖治だった。もう一人はどうしよう?
 アウディ R 8をよく知っている人物が望ましい。
 検討を重ねた後、結論として出てきたのはフランスのベテラン、ヤニック・ダルマスだった。

そうして準備を進めるうちに、カレンダーは6月になった。
このエッセイは私自身の「我が心のル・マン」ということだから、少しプライベートなことを語らせていただく。

 6月の9日土曜日午後6時僕は成田空港にいた。
  ル・マンに向かう仲間の一人、雑誌「自動車工学」の斉藤和俊さんが、なぜが、頭に白い粉をつけている。
 何かと聞くと、家を出るときに、階段からトランクが落ちてきたらしく、頭を怪我していて、応急措置をして来ただけだといいう。
 「このままじゃいけないよ。空港の医務室へ行こうよ」と言って彼は医務室へ。
 なんと7針縫って、頭にネットをかぶった状態で、飛行機に乗る。

 パリには朝4時に到着した。しばらく待ってレンタカー屋で「ルノー・エスパス」を借りてベルサイユに向かい、斉藤さんが幼い頃お世話になった「イエズス会のフランス人・マザー」を慰問した。
 ここでエスパスを歩道ギリギリつけた時、ブチッと嫌な音がした。ガラス瓶を踏みつけてタイヤがパンクしたのであった。いきなり事件 Part 2が発生である。
 とりあえずタイヤをテンパータイヤに交換して、朝9時、94歳のフランス人マザーにお目にかかり、そこからル・マン市を目指す。その日は日曜なので、タイヤの店はなく、ル・マンの西南ソレムにあるホテルに入って休んだ。

 翌日、本来ならメディアの登録をしなくてはならない。でも、まずタイヤだ。
 近くのスーパーへ行く。サイズがない。ラフレッシュという町にミシュランがあると言われて、ラフレッシュまで行くが、店が見つからず、 近くのフィアットの修理店で聞いてみるが、そこにタイヤはない。ルノーの販売店を見つけて入ってみたが、埒が明かない。
 諦めてル・マンに入り、メディア登録センターで、メディアの受付を済ませる。
 ところが私のピットに入るためのタバード(ベスト)の許可が下りない。
こういう時とても落ち込むのである。ガッカリして中華屋さんのお昼を済ませて、ようやく、スーパーマーケット「カルフール」の前にあったタイヤショップに入り、新品タイヤを見つけた。たった一本なのに4万円近くした。なんというお金と時間の浪費か・・・。
 なんだかとっても暑くなった。でもハンドルを握っている自動車工学の斎藤さんは「このクルマ、クーラーがないから我慢するしかないですね」という。僕もその言葉をずっと信じて行動していく。

「毎年交流している第一シケインのオフィシャル仲間。フィリップさんと話す。俺たちはもうフロッピーディスクは使ってないから(笑)なんて言っていたのかも」


 6月11日火曜日朝、サーキットに入り、メディアセンターへ行くが、机が確保できなかった。その足でチーム郷に行き、取材を開始した。
 午後になって、もう一度、ジャコバン広場の車検場に出かけた。
 なぜかと言うと、ここにメディアの責任者が現れるからであった。
 Fという男性の責任者に会って英語で僕の今までのキャリアと「走れクニミツ」の本を渡し、ル・マンへの貢献を強くまくしたてると彼は自分の名刺に「タダシに最高のタバード」と書いてくれ、ポンと名刺を渡してくれた。
もう一度、サーキット近くの「メディア受付センター」に行って受付のマダムに名刺を見せると、ようやく赤い色の取材ゼッケン(タバード)が手に入った。赤はどこにでも入れる最高のタバードだ。

 全くル・マンというところは、非常に疲れる。毎年来ているベテランの僕がこういう状態である。同行の斉藤さんもベテランなのに頭にネットをかぶった姿で、タイヤを探して右往左往。そしてクルマにクーラーがない(笑)

 さあ、いよいよ2002年、第70回記念のル・マン24時間が始まる。
僕たちメディアも、とっ散らかって珍道中だが「アウディ・スポーツ・ジャパン・チーム・ゴー」は果たしてどんな戦いぶりを見せてくれるのだろうか。
勝てるマシン「R8」を用意し、万全の態勢を組んだチーム郷は、まさに5000m級の山岳にベースキャンプを設営して、エベレストの頂上を目指す。そんな勢いに思えた。このアタックは成功するのだろうか?



「2002年は第70回大会になった。表紙はイギリスのベントレー。しかし勝ったのはベントレーではなかった」


 この年のル・マン。

 チーム郷のほかには、9号車コンドーレーシングが童夢S101ジャッドで挑戦。
 これは、2003年から2004年の横浜タイヤの「ADVANル・マンプロジェクト」に繋がっていく。ドライバーは近藤真彦、フランソワ・ミゴー、I・マクケラー。
 近藤真彦は、単身でさまざまなレーシングビジネス交渉を始めていた。

 18号車の「ペスカロロ・スポーツ・クーラージュ」C60 EVOプジョーには片山右京が乗ることになった。相棒はエラリーと、オルテリだった。
 24号車オート・エグゼ・マツダには寺田陽次郎。
 74号車フェラーリ360モデナに福田良(急きょ決まった)
 77号車チーム・タイサンADVANポルシェ911GT3-RSには、飯田章、余郷敦、西沢和之の三人が参加していた。

 また16号医者のレーシング・フォー・フーランドの童夢S-101ジャッドには、ヤン・ラマーズ、トム・コロネルが参戦していた。

「チーム・タイサンADVANポルシェ。レース前にかつ丼パーティーをやってくださってお世話になった。Photo by Tadashi Takagiri」


  さて、予選から決勝については次号で詳細をお伝えしよう。
  乞うご期待。

この項 了

つづく。