何から、語りはじめようか? これをしたためているのは2017年春である。
21年前を振り返ろうというわけだから、大変は大変。。
それでも、僕はまだ生き生きとあの日のル・マンに帰ることはできる。

ただ、時代についてだけは語っておきたい。
1996年のモータースポーツ界。
国内の全日本GT選手権では、郷和道さん率いる
ラーク・マクラーレンF1GTRがぶっちぎりの勝利を飾り、
チャンピオンになった年である。
その結果、郷さんは、いよいよル・マンを目指す将来像を描いていく。
ニッサンはル・マンに向けてGT-Rを2月にシェイクダウンさせ、
着々とル・マンに備えていた。鈴木亜久里はF1を引退し、
国内のGTで走り始め、ル・マンにも遠征することになる。
国内フォーミュラで言えば本山哲がフォーミュラニッポンにデビュー。
また脇坂寿一が全日本F3チャンピオンになった年でもある。
僕はテレビ東京の全日本GT番組の構成をしていた。
東京FMのADVANサウンドコクピットもやっていた。
テレビ朝日のハイビジョン実験放送番組もタッチ。
フジテレビのF1番組とツール・ド・フランスも構成していた。
オートスポーツ等、雑誌にも寄稿。
そして、
前回お話しした通り、ル・マン遠征は自費で行くようになった。
赤字だが、やるべき意義があった。
この1996年を何回かに分けてお話ししていくが、
大きな結論を言うと、
「日本人が望んだ現状維持的な闘いの図式を、ポルシェがあっさりと
打ち破り、日本は置いていかれた年」だった。
日本で、マクラーレンF1GTRが「驚異の黒船」だと思われていた時、
ポルシェのノルベルト・ジンガ―は「打倒マクラーレン」を目標に、
まったく新しいポルシェGT1を急遽開発してきた。
はっきり言って日本はのんきに構えすぎていた。
世界は、そんなに甘くないのである。

今日の本題。チーム国光3年目のル・マンについて語って行こう。
前年、クラス優勝までこぎつけたものの、HONDAは、
これ以上ル・マンへの挑戦は望んではいなかった。
はっきり言って全面撤退状態。
ただ、国光だけは違った。
なんとしてでも、NSXで、みたびル・マンに出たい。
国光はHONDAに頼み込み、一台だけの出場を許可してもらった。
そのかわり、ワークス体制はない。
研究所の人間は派遣せず、チーム国光ですべて賄う。
NSXのシャシーそのものは、イギリスTCPが作ってきて、
それを、日本の(株)シフトがメンテナンスする。

私は1996年6月8日ANA205便でパリに向かった。夕方到着、
レンタカー屋でオペルベクトラを借り、パリのリッチモンドホテルに一泊。
6月9日朝、ベルサイユの町に行き、同行の斎藤和俊さんが幼い頃
お世話になった、イエズス会のマメール(母)に会う。マメールはこの時84歳。
ここはイエズス会の養老院なのだ。
簡単に説明すると敗戦で傷んだ日本を助けに来た
フランスの尼僧さまが余生を送っており、そこを訪ねたわけである。
そしてオートルートでソレムの町のグランドホテルにチェックイン。
10日月曜日は午後から車検である。
まずはプレス受付。滞りなく手続きを済ませて、午後はル・マンの町の
カルフールに行き買い物、マックでお昼。
そうしてジャコバン広場に行くと、国光さんが来ていて、おしゃべり。
そこに寺田陽次郎さんが来て三人でおしゃべり。
なぜこんな書き方をしているかというと、
ル・マンの生活の流れを知っていただきたく、
日記や、取材ノート見つつ、ディテールにこだわっているのだ。
車検が終わって、ル・マンの駅前中華へ突入。
店名はマンダリン。店長はミッシェルという中国人。
テレ朝チームもやってきて、我々はソレムの町まで帰ります。
ル・マンから40キロ。結構遠いけれど、静かで落ち着く宿。
11日火曜日。チーム国光の三人はお休み(笑)
みんなでモン・サン・ミシェルに出かけてしまいました。
私はTOYOTAの関谷さん、影山正美、光貞の取材。
昼はジャコバン広場の裏のイタリアンレストラン「エトナ」(火山ね)。
店のオーナーが、私を見て、イタリア語でまくしたてる。
(最初にイタリア語でしゃべったから、すべて通じると勘違いしている)
この日はここで切り上げて、ソレムに戻りつつ、
サブレの町でお茶。サブレの町はサブレ発祥の地。
夜はグランドホテルで魚料理。
12日水曜日。いよいよ予選。ただ昼はポルシェのパーティ。
寺田さんのお友達でオーナーシェフのカルミネさんが、
シェフをしてくれているスペースで、MAZDAスピードの
故大橋監督にインタビュー。
スパゲッティいただく。旨し。
16時から国さんがスタッフに訓示。車にガソリン洩れあり、
シフトの鈴木さんも車に不満があった。
4分12秒には入れたいという目標で始まった予選だが、
圭市がアタックに行った1コーナーでアクセルが戻らず、
危うくクラッシュしそうになり、イグニッションを切り、止めた。
そして4分18秒473まで出したがビリだった。
私はTOYOTAも取材して、中華を食べ深夜に帰った。
13日木曜日。昼はマツダのパーティーに出て、
予選2日目はカメラを持ってコースで撮影。
テレ朝時代はできなかった自由な取材だ。
暗くなってチーム国光ピットへ。タイムが伸びない。
結果マシンを組み直し、隣の飛行場でテスト走行(金曜日)
なんだか暗雲漂ってきた。
14日金曜日。今度は我々が休暇を取って、モン・サン・ミシェルへ行ってみた。
ゆっくり行ったので現着2時。
そこからソレムの町に帰り夕食。
なんだかんだで夜2時に就寝。

15日土曜の朝。臨戦態勢で出発。
サーキットにはウオームアップ走行の頃到着。
でも、我々はまずカルフールに行き、氷やハム、ビールやワイン、
サンドウイッチなどを買い込みます。これをボックスに入れて車に積み込み、
レースの途中で補給するわけ。
でも昼食はチーム国光のおにぎり(笑)
とても暑くなってきた。シフトの鈴木社長、静かな人だ。

やがてスタートの時刻となり、まずは飯田章がスターティングドライバー。
12ラップして国光に交代。37位。
ラップタイムが悪いから圭市が嘆く。
「レースしたいよ、これじゃレースにならないよ」
ぶつぶつと文句を言うが、コースに出たら全開。

31ラップが終わってチーム国光は39位。
18時45分だった。
51ラップ目タイヤバースト。
10分かけて戻った。リアカウルも一部はがれた。
そして21時過ぎにもタイヤバースト。
22陣30分、エアジャッキのパイプが壊れた。
それでも深夜時には29位まで上がった。

午前2時頃、土屋圭市乗ってきた。タイムがどんどん良くなる。
三人は、コンスタントにスティントをこなしていく。
4時半章が帰り、国光が行く。ローターとパッド交換。

朝方は国さんがドライブ。
朝9時半、チーム国光は、18位。231周した。
ただ、クルマのフロアが、どんどん熱を持ち、
章は足が火傷状態になって行った。
足は包帯ぐるぐる巻きで、「どらえもんになっちゃった」と痛そう。
日曜日朝11時。圭市の時に、フロントガラスにひびが入った。
ブレーキオイルが焼ける。クラッチはもうない。
それでも、なんとか、総合16位でフィニッシュ。クラス3位であった。
「わがまま言って、やらせてもらって、スポンサーさん、スタッフ
みんなに迷惑を掛けました。ありがとう」
国さん、終わって一言そう言った。
後日談だが、月曜日パリに行き、パリ在住の友人と飲んだ。
だが、こちらはほとんど徹夜のレース後であり
泥酔してしまった。
ご一緒したパリ在住の本当に有名な女優さんにあきれられてしまった。
この項了。