とうとう2000年のル・マンを書く時がやってきた。
私は、大きな感慨と共に、あの時代の狂気にも似た企画を
懐かしく思い出さざるを得ない。
物語は1999年のル・マン24時間レースの車検場、
ジャコバン広場から始まる。
当時、私は、テレビ朝日スタッフから外れて5年経っていたが、
久々にテレビ朝日の倉田ゼネラルプロデューサーと話し込んだ。
というより、倉田氏が私を呼び止めた。
「来年はテレビ朝日がル・マンの放送を始めて15年になるので、
何か記念になるような企画をやりたいんだけど、考えてくれない?」
ワークス大戦争が終わると、2000年のル・マンには目玉がいないということもあり、
倉田氏は何か目玉がほしかった。
では、ドリームチームみたいなものができれば、ファンの皆さんにいろんな角度で
レースを見せられるのではないか?
自分たちでチームを作ってル・マンに出る。そんな構想がぼんやりと浮かび始めた。
帰国した倉田氏は、まず、チーム郷の郷和道さんに相談した。
郷さん自身はすでに自分のチームで出ていたが、テレビ朝日と組むという選択肢も
あるとして、「何かあれば協力しますよ」というご意向だった。
そして秋ごろ、私と倉田氏は新橋の焼き鳥屋で会合した。
「テレビ朝日チームを作りたいんだ。そのコアメンバーになってくれないか?」
「いいけど、速いドライバーじゃないといやだ。速いクルマじゃないといやだ」
と、まるで自分が監督をやるような返事をした。
なぜなら私の理想のル・マンはジャン・トッドが率いたプジョーチームの勝ち方。
私はル・マン=戦争論者だった。
その後、倉田氏と、郷さん、私の三人は何度も集まりチーム現実化の
相談と作業を開始した。
考え方はいろいろあって、例えばニッサンやトヨタに協力を仰ぐこともできた。
しかし、民放テレビ局が一社に偏るのは、まずいということで、
「じゃあどういうクルマでやるか」
クルマ選びが始まった。
その一方で、核となるドライバーを探す作業が始まった。
その年、関谷正徳さんがテレビ解説だったので、相談してみたが、
関谷さんと話し合いに入ると、機嫌が悪かった。
「テレビ局がレースをすると、とんねるずのカート大会みたいなことを
させられるんじゃないの?」というのが関谷さん最大の危惧だった。
我々コアメンバーは「真摯にレースに取り組むこと。今まで伝えきれなかった
レースの文化を伝えること」などを説明するうちに関谷さんも理解し、
現役引退したばかりの高橋国光さんにも加わってもらって、国さんは、
自分が走ることに意欲を持ち、眼を輝かせた。
私がやることは、このレーシングチームを作りつつ、スポンサーや
協賛企業を得るため、またテレに朝日の営業さんたちが持ちまわるための
企画書を書くこと。それはお手の物だから、すぐにやった。
9月1日にはもう第一弾を書いた。
まずは社内用の伺い書。次に、営業的な企画書。

そして1999年の11月、テレビ朝日社内でやることが認められて、
12月1日には、事務所がオープンした。
そこに詰めては企画をブラッシュアップしたり、夕方からは
例えば土屋圭市さんを口説きつつ、そこから近藤マッチ選手に電話して
即決で返事をもらったりと、電光石火の速さで進めた。
さて2000年のル・マンで使う車両だが、フェラーリ555マラネロ案もあったが
デリバリーが相当遅れるということで無理。LMPクラスは、パノスLMP1を使うことになった。
一方GTSクラスにも出場する予定で、こちらはダッジ・バイパーGTS-Rでやろう。
というように、風呂敷を広げるだけ広げて、2000年の1月26日に六本木で
「テレビ朝日レーシングプロジェクト発表会」が行われた。
私はさすがにオペレーションには加われず、メディアコーディネイターとして、
広報と、リエゾンの責任者となり、現場であいさつもした。

そこから数カ月の間に、事態はかなり動いた。
まず、ル・マンの主催者がテレ朝のGTSクラスの参加台数は1台しか認めない
ことが判明し、意味がないのでダッジ・バイパーはやめることになった。
また当初は高橋国光さんにも走ってもらうつもりで声をかけたが、
諸事情から、ドライバーではなく監督をやっていただく。その説得も必要だった。

オートスポーツ誌にも、インサイドリポートを書いた。
このようにあらゆるメディアミックスで盛り上げるつもりであった。
2000年2月23日からはアトランタでのパノステスト。
4月5日には六本木のテレビ朝日敷地内にある事務局で結団式。

申し訳ない結果になってしまった。
そして私は4月26日、土屋圭市、飯田章、近藤真彦、影山正彦、影山正美という
メンバーを引き連れて、ル・マンのテストデーに向かった。
エールフランスAF275。ドライバーたちはビジネス。私はエコノミー(笑)
4月27日、朝から雨。イギリスからメカニックが到着せず、何もできないので
みんなでホームセンターへ行き、買い物。
28日も雨だが、シート作りが出来ていない。
マレーシアへ講演に行っていた国さんも合流。
イギリス人メカニックは帰ってしまって、国さんとドリームチームで夜の8時からシートを作る。
深夜12時までかかって帰る途中「これは悪夢のドリームチームだ」と正美が言って大笑い。
翌日、時間がないから早く走りたいというから寝る時間もない。
29日は皆しっかりと走った。マッチはクルマに慣れた。
30日朝、土屋と正美がアタック役でタイムを出して、
そのままTGVに乗って成田へ向かい、その足で富士のGTへ。
ドリームチームの内情は大変なのであった。
まだまだ続きますよ。