わが心のル・マン28年史 その20 1996年第四話「ミスター・ル・マン 寺田陽次郎のJR的進撃は実らず」


言うまでもなくMAZDAは日本車として初めて、
唯一のル・マン総合優勝を果たしている。

そのMAZDAもレギュレーションの変化によって、
常に参加はしていないが、1995年はDG-3で総合7位になり、
1996年は新型プロトタイプマシン「MAZDA DG-4]」で
ル・マンに挑戦した。

(3ローターの軽量なマシンDG-4に乗る寺田陽次郎)
  TAKAGIRI TADASHI


マシンは、マツダスピードとアメリカのダウニング・アトランタ社が
共同開発したもので、昨年型DG-3をベースに、軽量化と熟成がはかられている。

出場するのはプロトタイプ2(LMP2)クラス。
WRプジョーや、コスワースエンジンを積んだプロトタイプがライバルになる。

ドライバーは寺田陽次郎に加えアメリカのジム・ダウニング、
JTCCでも走るフランス人フランク・フレオンの3人である。

スポンサーは神奈川クリニック。
レース好きな山子院長がチームを後押ししていた。

車検場で寺田陽次郎に会い、まずは聞いてみた。

「今年のキャッチフレーズは何ですか」

「今はないから、何か考えてよ」と寺田は笑った。

「予選は真ん中ぐらいにいて、決勝はトップ6とかには入りたいよね。
20キロは軽くなったけど、トップスピードは295㎞/hくらいまでしか出ない。
馬力も400馬力もない」

ブレーキはカーボンになり、ブレーキポイントは奥になった。
「10メートルくらいは奥に行けるね」

「まずは3人のタイムや燃費を一定にさせることだね。
で、予選初日はアタックするけど、2日目は決勝仕様をさぐる」

そうして予選に臨むと、3分57秒336のタイムで、26番手。
まさに真ん中ぐらいであった。

「今年はJRのダイヤみたいに精度の高い走りをします。メカニックが寝られるレース。
あっキャッチフレーズができたね。JRみたいに正確に行く(笑)」

マツダスピードは、ル・マンのソサエティに多大な貢献をしてきた。
主催者であるACO(西部自動車クラブ)からの信頼も厚く、地位も高い。
この年も地元のお歴々を招いてのランチパーティがあった。
私もお相伴にあずかる。
料理はサラダや、豚のパテと言ったル・マンの料理。鳥の香草焼き。

堅苦しくなく、そうかといって仰々しくない、あたたかな雰囲気の昼食会。

レーシングカーと、レーシング・アクティビティは、立派な外交官である。
その辺を、政府というか、日本のお役人たちはわかっていない。
こうした本質について、僕はもっと啓蒙したいと個人的に思う。

翌日、東京神楽坂の有名イタリア料理店カルミネのオーナーシェフが
腕を振るうマツダのホスピタリティブースで、故大橋孝至さんに話を聞いた。

「まあこういうご時世ですから(今も昔もみなさんそういいます)
来年やるかどうかはわかりません。帰って9月頃にまた考えます」

これも一つの本質論で、僕はこのかた、レーシングの現場で、
「今年は予算が潤沢で」とか「儲かってしかたがない」という話は
一切聞いたことがない。

「お金がない。予算がない。ぎりぎりだ」
そんな話ばかり聞いてきた。
それっておかしいでしょ!
つねにお金がないところでしか、
モータースポーツは生きてこれないの?

(マツダさんに向かって言っているんじゃなくて
全モータースポーツ関係者に投げかけています)

2017年の今からは、もっとしっかり儲けていきましょうよ(笑)

さてレースは始まった。

フレオンが乗って7周してピットイン。タンクが80リットルだから
頻繁なピットインが必要だ。
ならばタイヤやブレーキをセーブしてコツコツと前進するしかない。
まずは13位から14位まで上がってきた。
フレオンから寺田、そしてダウニングというローテーションで行く。

夜が更けて、フレオンが絶好調に入った。
予選を上回る3分56秒0というタイムをマーク。
一人で3スティントも行ってしまう。

(なぜかフレオンのヘルメットステッカーが出てきた)


午前1時には総合12番手に上がった。
そこから寺田の担当となり、午前3時近くまでこなす。
寺田の走りもコンスタントであり、彼が言う
「JR並みのダイヤ」で精度の高いレースぶりであった。
ミスター・ル・マン、18回目のル・マン。水を得た魚である。

(深夜。フレオンは絶好調に入った)
 ONISHI YASUSHI


しかし明け方、ダウニングに交代したころ、
ギアオイルが減ってきており、補充するが、
朝7時にいよいよギアボックスが音をあげ、大修理に入っていく。

夜間に大量のリタイヤが出た。
午前8時の段階で走っているクルマは28台。
マツダは何と28位。ビリであった。
そして9時半に再び走り始めたが、
ラップタイムは前ほどには上がらず苦しい走り。

そんな中、フレオンがインディアナポリスを飛び出し、
グラベルに突っ込んで、緊急ピットイン。
順位はビリのままブレーキを修理。

JRのダイヤの様に正確だったマツダだったが、ある一点から
ずるずると後退し、トップから103周遅れの25位。
ほかがリタイヤして、クラス優勝とは言うが、最下位である。

優勝を経験したマツダだが、初期のチャレンジ並みの苦しいレースを強いられた。
レースほど、思惑通りにいかにものはない。

打ちつけられ、ふるい落とされ、それでもめげないで、
また立ち上がる。
そうした精神の、タフさ、図太さ。
ル・マンはそれを教えてくれる「魂の道場」なのだ。


(1996年のメディア・パス。手書きである。この時はAUTOSPORT)


この項 了。