ひよ鳥が激しく鳴いて、松林を渡っていく。
迷い雲が流れ、陽光が降り注ぐと、
疾走するレーシングカーに陽光がキラリと反射し、目を射る。
ここはル・マン。
夢と狂気、栄光と挫折、天使と悪魔が同居する場所。
~ル・マンTV中継チームの正式メンバーとなる~
1989年、私は正式にテレビ朝日「ル・マン中継チーム」の一員として、ル・マンのサルト・サーキットに入った。

番組を構成する「放送作家」として、ではあるが、ル・マンという大きなスポーツイベントに「構成」は、なじまないという考え方から「取材協力 高桐唯詩」というテロップでテレビ画面では紹介されていた。
肩書きなどどうでもよかった。実際、車検日から予選まではディレクターと一緒に取材し、出来上がったVTRのナレーション原稿を書く(これは放送作家の仕事。)
決勝スタートから最初の6時間はピットにいて、松苗アナウンサーのアシスト役としてインタビューする人を選んだり、お願いしたり、ディレクター的な動きも仕事の一部だった。
それでも中継の構成台本は書いた。(先日コピーが出てきた)
なにせまだ若い。体力はあるし、なんにでも、やる気満々なのだ。
~1988年暮れから大忙し~
振り返れば前の年、1988年の暮れからお正月の1ヶ月間は「パイオニア・パリ~ダカール・ラリー(11回)」のためサハラ砂漠を横断した。昭和天皇が崩御され「平成」になったというニュースは、砂漠のど真ん中で聞いた。
パリダカの模様はフジテレビで5時間放送され好評を博した。
5月にはフジテレビの予算で、古館伊知郎や岡田美里さんたちとF1モナコグランプリに出張し、世界を飛び回る仕事が続いていた。
人はあの時代をバブルと呼ぶ。
しかし、私たちは卑しい仕事をしていたわけではない。
非常に洗練されたスポーツの現場に飛び込み、その魅力を伝え、みんなに希望を抱いていただき、楽しんでもらう。
その理想に燃えていた。決して否定的な活動ではなかった。
さて1989年ル・マン。
私はついにプライベート参加から、テレ朝の「ワークスチーム」に入ったというわけである。
アナウンサーの松苗慎一郎さんと良いコンビになり、取材を続けた。

~ル・マンはトイレ事情も悪かった~
ル・マンのサルト・サーキットには、古くから建っている正面スタンドビルディングが、その頃の一番の大きな建物であり、最上階にあるガラス張りの放送席で実況をする。まあ、このビルにもそれなりのトイレがあるが、ビルに向かって右手に、コースを横切るアンダーパスがあって、左に小さな観客用のトイレがあった。
有料で10フランとか払って入ると、便座はひきちぎれて無い。しかも他人のウンチがついているような有様で、よほど気持ちを強く持っていないとル・マンでの生活を乗り切っていけない。日本人は他国でついつい下痢をしがちだ。こうしたところでめげていては24時間闘えない。そんなことも思った。つまらない話だが、重要な心がけだ。
~どうなるジャガー対ポルシェの戦い~
さて、エントリーリストで見ると1号車から4号車までが前年優勝したジャガーXJR-9。
ポルシェはワークス不出場で、スイスのブルン、ドイツのヨーストとクレマー、フランスのクーガー、と言った中堅欧州レーシングガレージが率いるポルシェが(13台)続いた。
そのブルンに中谷明彦(初出場)。ケンウッド・クレマー・ポルシェに高橋国光。
レイトンハウス・クレマー・ポルシェに関谷正徳と岡田秀樹。クーガー・ポルシェに米山二郎。また20号車デイビーポルシェに池谷勝則選手がいた。

~日本車は、日本関係車両は~
23号車「カルソニックニッサンR89C」には長谷見昌弘、星野一義、鈴木利男の三人。24号車「YHPニッサンR89C」にはジュリアン・べイリー、マーク・ブランデル、マーチン・ドネリー。そして25号車「ニッサンR89C」にはジェフ・ブラバムたちが乗った。ニッサンワークスは3台体制となり、R89C開発主管の町田収氏が現地入りした。
同じニッサンの32号車キャビンR89Vニッサンには和田孝夫、森本晃生そしてオロフソンが乗った。
トヨタ・チーム・トムスも3台体制。
36号車ミノルタ・トヨタ89CVが小河等、パオロ・バリラ、ロス・チーバー。
37号車タカキュー・トヨタ89CVがジョニー・ダンフリーズ、ジェフ・リース、ジョン・ワトソン。38号車デンソー・トヨタ88Cが星野薫、鈴木恵一(初出場)ディディエール・アルツェの組み合わせであった。
そして55号車はバーン・シュパン率いるオムロン・ポルシェ。ドライバーはシュパン、エイエ・エルグ、ゲイリー・ブラバム。
注目は61号車62号車63号車。
前年決勝を忌避したザウバー・メルセデスが3台エントリー。
5.0リッターターボエンジンで、かなりの速さ。空力も良さそうだった。
マツダは767Bを3台。ドライバーは201号車に片山義美、202号車に従野孝司、203号車に寺田陽次朗が乗り、後は外国人の組み合わせだった。
他には113号車のクーガー・ポルシェに粕谷俊二が乗り、これで日本人ドライバーは17人と言うことになった。
粕谷選手は結果的にC2クラス優勝を果たす。まさに快挙であった。

ドライバーの呼び方なども本人に聞くなどして統一する。
ただ、その後は忙しすぎて、レース経過はメモできていない。
さてこの年、ル・マンの前、重要なレースが鈴鹿で行われた。
WSPC世界スポーツプロトタイプカー選手権の開幕戦(4月7日~8日)である。
ル・マンを走るであろう世界のマシンがいきなり日本に遠征してきたのだ。
82周、480キロのレースを制したのは、ザウバー・メルセデスだった。しかも
バルディ組が1位、アチソン組が2位のワンツー。3位がヨースト・ポルシェ。
このレースはNHK-BSで放送された。見た人はいったい何人?何世帯だっただろう?NHKは看板やスポンサーロゴを写さないよう工夫していた。かなり無理があった。
話はまだまだ続く。
ル・マンはこのWSPCの第3戦の予定だったが、直前にシリーズから外れ、一介の国際レースになった。それはFISAとル・マンの主催者ACOの対立によるものである。
FISAはこのスポーツプロトタイプカーレースをF1と同じ3.5リッターNAエンジンでやりたい。また統一したルールにしたい。主催者から金を取りたい、テレビの放映権料もFISAに欲しい。
つまり「発生する利権はお上へ」と言う発想だが、ル・マンのACO(西部自動車倶楽部)だって長年、規格を考え、知恵を絞って60回近くやってきており、FISAの面々の馬鹿さ加減にはうんざりしていた。だから「草レースで上等。FISAのおもちゃにはさせない」という決意だった。
1989年ル・マン本番。予選トップは62号車ザウバー・メルセデス。2番手は61号車ザウバー・メルセデス。3番手が1ジャガー。
この年は、夏を思わせる猛暑だった。
スタートから2台のザウバー・メルセデスが猛烈なペースでレースを引っ張る。
テレ朝の中継放送も三浦アナウンサーの名調子で賑々しく始まった。
解説の熊谷睦氏も歯切れよく喋っていく。やがて3号車ジャガーがトップに立つが、その頃24号車YHPニッサンが、2号車のジャガーに追突してピットへ。運搬用のレインタイヤに履き替えた。と言うことはリタイヤ明白。早くも波乱だ。
トップを行く3号車ジャガーはやがて、ギアボックス・トラブルで後退した。
4時間後からは9号車ヨースト・ポルシェ(日本の伊太利屋カラー)がトップに立った。ニッサンも速さを見せ23号車が4位に上がるも163周でリタイヤしていく。
トヨタの37号車ジョニー・ダンフリーズはフォードシケインでトラブルに見舞われストップ。自ら修理して戦列に復帰するもリタイヤ。
ダンフリーズの悲劇は長く中継画面に映っていた。まさに生で見るドキュメンタリーだった。
一方、マツダは優等生的なオペレーションで粘り強く走っていた。
夜のとばりが降りて、闇空に高らかに聞こえるのは、マツダのローターリーサウンドであり、いつもこのサウンドを聞くと「あーマツダはまだ頑張っている」という希望というか、勇気を感じるのである。
テレ朝は、いつものようにプレハブの詰め所で仕事をしているが、午前2時頃になれば、多少寝ていい人材も出てくる。でも、この年のスポーツ局長が妙に頑張る人で、なかなか寝ないのである。局長が起きているのに部下が先に寝るわけには行かない。妙な我慢比べが続いていった。
~メルセデス久々の優勝~
その頃、ヨースト・ポルシェに変わって1号車、ラマーズ組のジャガーがトップに立った。やっぱりジャガーなのか?と思った。
そのジャガーのトップも朝の6時までだった。
そこからは61号車のメルセデスがトップに立ち、朝の8時には63号車のメルセデス(ヨッヘン・マス組)がトップに立って、そのまま午後4時のゴールを迎えるのであった。メルセデスは37年ぶりのル・マン優勝となった。
1位は63号車ザウバーC9/88・メルセデス。2位61号車、同ザウバー。
3位はヨースト・ポルシェ。4位が1号車ジャガーであった。
日本車は201マツダが7位。202が9位。203が12位。
マツダ以外は完走できなかった。
~高橋国光あわやの炎上~
さて、親しい高橋国光さんであるが、この年はブルーノ・ジャコメリ、ジョバンニ・ラバッジと組んでいた。翌日の正午過ぎ、国光の運転中に、ケンウッド・ポルシェの車体後方から激しい炎が出て、国光は1コーナーシケインアウト側にわざとスピンさせ停車。炎に包まれた。
国光はドアを開けようとしたがすぐには開かず、無我夢中で体当たりして、なんとか開き外に転がり落ちた。少し歩いて意識がなくなり倒れたが、また意識が戻り、歩いてピットに帰った。
この時、煙を吸い、喉に軽い焼けどを負った。私はディレクターの命令で、以後の放送のゲストに出てもらえないかと、頼みに行ったが、声が出ないクニさんを前に、無理強いはできなかったことを覚えている。
このあたり詳しくは拙著「走れクニミツ 小説高橋国光物語」をお読み下さい。
電子版もあります。
ここからは個人的なお話。
長年、クニさんの写真を撮ってきた小金井市の、波多野成章さんと聖さんもル・マンに来ていたが、レース翌日、パリのアメリカンチャーチで結婚式を挙げ、私も列席。もちろんクニさんも列席している。
またこの年は、レースカメラマン大西靖氏が、プロとしてル・マンデビュー。前年はアマチュアで雑誌のル・マンクイズ一等賞で招待され89年はいきなりプロとして仕事開始。優秀である。
パリで一日静養した私は、友人とローマに飛び3泊。ローマを堪能してから帰国した。
了。