レース界の巨人、高橋国光。
ほとばしる才能、土屋圭市。
頭脳も運動神経も抜群、飯田章。
3人は、モータースポーツの旗の下に集い、
「チーム国光HONDA」という、熱を帯びた集団を引っ張り、
見事GT2クラス優勝を達成した。
率いたのは、HONDAの橋本健プロジェクト・リーダー。
オペレーションはノバ・エンジニアリングの森脇基恭監督。
1995年は日本のル・マン挑戦にとって、
実にエポックメーキングな瞬間であり、歴史に残るレースといえる。
ここに貴重な記録を発表する。
まず、しばらくは、私の個人的な、たわごとにお付き合い頂きたい。
1995年は、今(2016年)から振り返ると、私の人生にとっても大きな記念碑的な年だった。
正月から仕事が充実。そこに阪神大震災があった。大相撲の仕事もした。
そんな中、4月の中旬からヨーロッパに出かけた。
これは日本放送作家協会の当時の理事長、故・岩間芳樹先生をリーダーとした作家有志による旅で、欧州の作家と交流を深めるためドイツ、ハンガリー、スロベニア、ヴェネチア、オランダ、ベルギーなどを15日間漫遊した。
その最後に、私だけツアーから離脱し、ケルンを朝8時に発つプロペラ機でパリに移動。ル・マンに入り、「テストデー取材」をしたのである。これは1992年のF1イギリス・グランプリとル・マン、ツール・ド・フランスを一気に取材した時以来の、ダイナミックな旅だった。
テストデーは、三栄書房のオートスポーツの取材である。
日記があるのでディテールを書くと、4月29日朝、パリの空港では入国審査なし。EUピープル便だからノーチェック。タクシーでモンパルナスへ。そこから立席承知乗車券でTGVに乗ってル・マン駅着。おばちゃんタクシーでコンコルドホテル。荷物を置いてACOに行き、クレデンシャルをゲット。でもピットは暇そうなので早めにホテルに帰った。テストだから一流ホテルのコンコルドでもリーズナブルな値段だった。
翌4月30日。テストが始まった。土屋圭市は絶好調で、どんどんタイムを縮めた。4分23秒、4分20秒、4分19秒、4分16秒74。これは希望が持てた。

5月1日はもう帰る日。GULFレーシングのおじさんが、レストランでガン飛ばしてくる。パリまで三栄書房のレンタカー。パリで一泊して日本へ。18日ぶりの帰国だった。
5月18日には東京赤坂プリンスでNISMOのル・マン発表会があった。
5月22日にはADVAN SOUND COCKPITに橋本健が出演。
終わってみんなで「銀座からく」にて、寿司を食べた。
そしていよいよ、ル・マンの本レースに向けて出発の時を迎えた。
特筆すべきは、この年、私はテレビ朝日の中継班から外れた。
クビになったのである。そのわけは、僕のモータースポーツ知識や専門性を知らない、新しい局長が「なんでスポーツの中継に放送作家が必要なんだ?」と言いコストカットを図ったのである。芸能系の人物だったからそういうことになってしまった。僕はそれを恨まない。「自費で結構。独自取材を続けるぞ」という気概があった。
それ以来ほぼ10年近くル・マンへは自費で行くことになる。
この年はチーム国光を運営する会社「トランスポーツ」に合流。
すなわち、僕自身がチーム国光の一員と言える状態だった。
エアはBA。ロンドン経由でパリへ。
5月12日月曜日にジャコバン広場の車検場に行くが、NSXの車検は翌日だ。
でもHONDAの橋本健がいて、ライバルたちのクルマを観察していた。
「まだ見に来ないでね」橋本健が、わけのわからない一言を発する。
この日は、高橋国光の姿がなかった。それはNHK-BSの「わが心の旅」のロケのため、イギリス、マン島へ行っていて、その足で、ル・マンに向かっていたからであった。
翌日6月13日火曜日。ホテルで目覚め、レストランに行くと国さんがいて、しばし、マン島の旅の話となる。
そのままチーム国光のクルマで車検場まで移動。
NSXには大変な人だかり。橋本健は真っ赤なジャケット。
土屋圭市は、早く起きすぎて眠いという。
車検が終わってサーキットへ移動し、この日は服部尚貴の誕生日。ちょっとしたパーティ。夕ご飯はHONDAでいただいた。
6月14日水曜日、予選日である。私は14時30分から、サーキットのメディアセンターでデスクの予約。15時半チーム国光のテントに行くとミーティング中であった。この日私はKENWOODの赤いジャケットをいただき、そのままチームの一員のようにカモフラージュ。
予選。84号車は順調だが、ターボの47号車オイル漏れ。46はエンジン始動せず調子が悪い。やがてギアボックスにトラブルも出た。
6月15日木曜日。
橋本健は語った。「47号車(ターボ)は昨日、油温が上がって、対策ができて、ブーストを上げてアタックしようとしたらミッションが壊れちゃった。46号車(NA)はスターターの不調」。
チーム国光HONDA NSXは予選37位。クラス3番手からのスタートとなった。
予選タイムは4分15秒55だった。
高橋国光は言った「これでやっと土俵に上がれた。力を出し切ればいいんであって」
土屋も言葉をつないだ「世界の土俵に上がれた。去年は土俵の外だった。今年は世界の中でレースをしている。
予選が終わって夜半のHONDAテント。
橋本健は「疲れた、何も食べていない」といって握り飯を一口食べた。
「あー今日は何も食べてなかった」
気がつけば、土屋圭市と飯田章は、モーターホームのベッドで寝ていた。
それを起こして、チーム国光のクルマでホテルに帰った。
深夜2時。一人で酒を飲み始め3時過ぎに寝た。
翌6月16日金曜日。午後。
ホテル・コンコルドでチーム国光のファン感謝ミーティングが開かれた。
ツアーで来ているファンや、スポンサー、関係者のパーティである。
私も招かれてシャンペンをいただく。
写真は、国さんの写真を撮り続けている小金井の波多野成章氏夫人で、チーム国光のアシスタントである波多野聖さん。KANEKOの金子社長。

1995年6月17日。いよいよ決勝の日を迎えた。
朝の天気は曇り。寒かった。9時15分チーム国光はホテルを出発。
15分でサーキットに入った。11時からウオームアップ開始だが、その前にミーティングを行った。
「だめだよ国さん。今年こそ、ラストは国さんだよ」
「いや、圭ちゃん、圭ちゃんか、章でいいんじゃないかな」
「俺はスタートやりますから、国さんは最後乗って」
ミーティングでは一人一人のスティントが決められていたのだが、最後のゴールを誰にするかで、もめていた。
国光は若い二人のうち、どちらかでいいと言う。これに対して、二人が異議を唱えた。
「国さん。俺たちは国さんに教えられながら、ル・マンに来たんだよ。国さんには感謝あるのみなんです。今年は国さんル・マン10年目じゃないですか。途中は俺たちが頑張るから、最後はカッコよく乗ってほしいんだよ。国さん」
土屋がそう言うと、感、極まって泣き始めた。章も泣いた。国光も泣いた。
三人は男泣きに泣いて、戦闘モードに入っていく。

午後3時48分。49台のマシンが、正規のグリッドに就くために一周し始めた。
ところがコース半ばで、圭市は異常に気がついた。
「何か、うしろから、煙みたいなものが出ている。何だろう」
無線で森脇を呼ぶ。
「ツチヤです。リアから白い煙が出ています。何でしょうかね」
森脇の決断は早かった。
「圭ちゃん。すぐピットに入って、直すから。大丈夫だと思うよ」
ほとんどの車両がスターティング・グリッドに並んだ。
圭市がピットに入ってきた。
エンジンカバーが開けられた。
森脇が、猪瀬が、上から下からのぞき込む。
「ミッションオイルだ!」
トラブルはすぐ解消できた。漏れていたミッションオイルが、エクゾーストパイプに着き、燃えたのだった。
しかし、そこでピット出口は閉鎖され、スタートにはもう間に合わない。
チーム国光HONDA NSXは全車一斉にスタートした後、ビリで戦列に復帰することになってしまった。
圭市は目を閉じていた。国光がそばにつきっきりで、
「圭ちゃん、先は長いんだ、ゆっくり行こうよ」となだめる。
全車がフォーメーションラップを終えた。
ペースカーが姿を消し、スタート旗が振り降ろされた。
1995年のル・マン24時間レースは轟音と共に始まった。
その直後、ピット出口はオープンとなった。
土屋圭市は脱兎のごとく、コースに入っていった。
圭市は我慢がならなかった。
馬鹿じゃないかと思われるほど飛ばした。
予選並みのラップタイムで前の車を一台、また一台と抜いていく。
後年、この時の心境を「いや、クラス3位からのスタートで、目の前にライバルがいると緊張するじゃん。だけど、ビリだからもう遅いやつ抜くしかないんで、
緊張しないでよかった」と語った。
土屋圭市は17時16分、16周を終えてピットインして、ここから飯田章に代わった。「アキラ、焦らなくていいからね」と声をかける。
土屋は私に「いい感じ、いい感じ。ブレーキもハードブレーキングしなくて大丈夫。美しいブレーキングでOK」と言う。
ところが、飯田章に代わって2周目。圭市の後半からコースに落ちてきていた雨が、一気に強くなり、豪雨に変わった。章は辛抱して走ったが、限界。
3周してピットイン、タイヤをレインに変えた。
しかし章は、無線で、別の症状を訴えた。
「森脇さん、エンジンの音、おかしいんです」
給油を含め、4分ほどかけて、下回りを見て、コースに戻った。
しかし、症状はいよいよひどくなった。
ノバ・エンジニアリングの猪瀬社長が、ピットの裏から大型のダンボール箱を持ってきた。中にはイギリスのTCP社で作ったマフラーが入っている。
再びピットインして、アンダートレーを外し、マフラーを交換。
「くそっ、なんだこれは?」
TCPで作ったマフラーの形状が悪く、割れてしまっている。段ボールの中の新品も同じ形だ。
「とにかく取り替えろ!」
森脇は指示を出す。NSXは作業している間にまたビリ近くまで落ちていく。
「国さん。マフラーの形状を変えてきたんだけれど、うまく付いてくれなくて、
エクゾーストにストレスがかかるのよ。今、簡易的に直したけれど、もしかしたら致命傷になることも覚悟しておいて」
スタートから2時間。大きな爆弾を抱えてしまった。
HONDAはターボ付きの47号車は35分で止まってしまい、自然吸気の46号車はクラッシュし、やっとピットに帰ってきて、今、木づちでガンガンとフレームをたたいて直している。
橋本健はイライラと、セーラムライトに火をつけ、
「一人になりたい。でもなれない。いい知恵が浮かばない」と嘆く。
しかし、エキゾウスト系が直ってしまうと、チーム国光号は、元気に走り始めた。
19時30分、国光が乗ってコースに向かった。

国光は21時まで走った。燃費はいいので1時間30分はコースに居られる。ここで土屋圭市に代わり、21時05分、コースに出た。
ここから2スティント、ほぼ3時間をドライブすることになる。
1時間半後、ピットインして、給油とタイヤ交換。ラジエターのシールドを調整。再びコースへ。
深夜0時2分。土屋は2スティントを終えて、飯田章に託した。この時点で、総合順位は20位。クラスではまだ4位あたりであった。
飯田章もここから2スティント行く。午前1時40分のピットインでは、ヘッドライトを拭いている。
深夜3時21分、土屋圭市は章からマシンを受け取り、闇夜のコースに出ていた。その時、ル・マンの魔物がついに牙をむいた。時刻はほぼ4時に近いころであった。突然、左のヘッドライトが切れたのである。
「土屋です。左のヘッドライトが切れました。見えませーん。ピットに入りましょうか?」
「圭ちゃん、切れたのは左だけ。確認するから我慢して走ってて」
森脇はそう返事して、NSXの電気配線図を持ち出して、
「一体どこの断線なんだ?」と協議した。
「土屋です。危険です。」
コーナー手前の200メートル、100メートルを示す看板に明かりが当たらない。雨もまだしとしと降っている。
コースが良く見えない。その恐怖の中、圭市は亡き母に祈った。
「おふくろ助けてくれ。おばあちゃん俺を守ってくれ」
そう祈るうちに、コースが明るくなった。母が圭市の目の性能を上げてくれたのか?
監督の森脇も、大きな決断をした。
今、土屋は夜の悪コンディションの中で、ものすごくいいペースで走っている。
我慢すればもうじき朝が来る。ここは耐えて走るべき。
その決断を皆受け入れた。
ヘッドライトは切れたのではなかった。
リトラクタブル構造が(振動その他で)壊れ、目が閉じた状態になった。
だからすぐには直しようがなかった。
4時44分、土屋はピットインしたが、給油だけで出た。もうヘッドライトはいらない。夜明けが近いのだ。

朝が来た。圭市は午前6時16分にマシンを降りて国光に代わった。
ブレーキパッドを交換し6時21分にコースへ。国さんも朝方2スティント行った。
チーム国光 HONDA NSXは18日の正午には総合8位まで上がってきていた。GT2クラスでは、トップに立っていた。午後1時6分。クルマを降りた土屋圭市は、すべての力を使い果たし倒れこんだ。
極度の脱水症状とけいれん。心拍数も変。目が落ちくぼみ声も出ない。
この時、尾てい骨付近が疲労骨折していた。
午後2時30分。飯田章の後を受けて高橋国光が乗り込む。
栄えあるゴールに向かって走るだけである。
午後3時45分。
ピットウオールに鈴なりになるチーム国光の関係者たち。
ホンダの橋本健がもう目を真っ赤にしている。
ケンウッドの前原進がいる。ノバ・エンジニアリングの森脇、猪瀬両巨頭もピットからやってきた。

そしてピットバルコニーには、本田技研工業株式会社最高顧問の河島喜好が夫人とともに高橋国光の雄姿を見つめていた。
その時、
「あっ、エンジンが止まった!」
国光が無線で叫んだ。
森脇は落ち着いていた。
「国さん、リザーブタンクのスイッチを入れてください」
「あっ、動いた。直った。スイッチ入れました。あー、よかった」
国光のマシンは、アルナージュを過ぎ、ポルシェコーナーを過ぎ、フォードシケインからゴールに滑り込んできた。
「皆さん、ありがとうございました。ありがとう。ありがとう」
「森脇です。おめでとうございました」
「ありがとうございまーす」
ゴールの後、押し寄せる大観衆を避けるため、チームスタッフはピットガレージの中に避難し、シャッタを閉めた。
そこで初めて森脇基恭が泣いた。
「ケン。ざまあみる」
橋本健が、本田技研の先輩である森脇に抱きついていく
「ケン、わかったか?レースはこうやって勝つんだ」
表彰台では、ふらふらになり、目も落ちくぼんだ圭市と、元気な章と国光が
GT2クラスの表彰を受けていた。

そのあと、会見場へ向かう通路で圭市は国光に抱きついていく
「国さん」
もう言葉にならない。
三人はおいおい泣いた。
「俺たちは無欲な馬鹿。だから勝てたんだ」
この人々は、本当に素晴らしい仲間だった。
子弟のようであり、兄弟のようであり、しかもぎすぎすせず、気持ちの良い関係でいる。
1995年、チーム国光 HONDA NSXはル・マンの歴史を作った。
日本人による日本車のクラス優勝は史上初であった。
その夜、宿舎に帰った私は、公式リザルトブックの裏に、関係者のサインをしてもらった。国さん、圭ちゃん、章、森脇さん、橋本健、そしてカネコさん。
それは私の宝物である。

翌朝、このホテルの前庭で、優勝トロフィーを前に記念撮影をした。

その朝のことだが、高橋国光さんから、イギリス、マン島に行った際、旧知の女性ファンからもらった、1960年代の国さんの新聞記事を見せていただいた。
それが、1998年に上梓した「走れクニミツ。小説高橋国光物語」を書くきっかけになったのである。
ともかく、濃密な1995年であった。
(了)