わが心のル・マン28年史 その6 1991年 ル・マンに日の丸が揚がった日


何から語り始めようか。
今も目を閉じれば、1991年6月23日のル・マンの光景が鮮やかに蘇る。
日の丸が揚がり、君が代が流れ、広島と東京からやってきた120人にも及ぶMAZDAの人々が感涙にむせんでいた。
日本車初のル・マン24時間優勝。それはロータリーエンジンと共に歩んだ技術者たちの血と汗の結晶でもあった。


 「悲願達成!メインポールに日の丸が揚がった。」撮影・高桐


~会社で学んだ青春時代。ロータリーに賭けた若き日~

ロータリー・エンジンはドイツのフェリックス・バンケルが考案した「連続回転するローターがそのまま駆動力になるエンジン」であり、広島の東洋工業(MAZDA)はその未来性に着目し、1961年にドイツのバイクメーカーNSUと技術提携し、研究をスタートさせた。決断したのは先代の松田恒次社長。
このプロジェクトは山本健一RE研究部長が牽引。山本もその後、マツダ社長・会長を歴任した人物。

その山本の下にひとりの社員が現れる。広島弁丸出しの松浦国夫であった。
松浦は水泳が好きな少年で、中学を出ると、当時一番難関といわれた東洋工業に入社し、社内の工業高校で学びながら仕事を覚えた。
入社して9年目、松浦はロータリーエンジン研究部の配属となり、山本の薫陶を受け成長していく。

松浦は命令されてやるのではない自由な研究に没頭した。
「高回転、高出力のロータリーエンジンはどこまで回るか? どこで壊れるのか?」など若さに任せて熱中していく。

 やがて初代スポーツカー「コスモ」が誕生すると、信頼性を試すためニュルブルクリンク84時間自動車マラソン「マラソン・デラ・ルート1968」に出場した。ドライバーは古我信生、片山義美、片倉正美、もう一台にはベルギー人ドライバー3人が乗り、80時間くらいまで4位と5位にいたが、日本人組はリアアクスル破損でリタイヤ。ベルギー組が4位に入った。松浦この時27歳。

 「苦難を乗り越え実用化。コスモスポーツ誕生」カタログより。


~MAZDAモータースポーツの責任者として~
それから20数年が過ぎ、松浦は国内のレースはもちろん、海外のレースの現場で指揮を執り、やがてマツダ株式会社広島本社モータースポーツ推進課長となり、レース用エンジン開発責任者となった。
マツダがル・マンに挑んできた20年の中で最も成績が良かったのは1989年の「MAZDA767B」の3台による7位、9位、12位だった。
本社にマシンを持ち帰ってエンジンを分解してみると、きれいで、あと5000キロは十分走れる耐久性を持っていた。

技術陣は自信を深めた。そして翌年に向けた会議が始まる。
マツダは誰かが次のレールを決定して動く会社ではない。
毎年、技術会議を行い「次はどうしたもんかいのう?」と言いながら、最終的に「やらせてほしい」「やりたい」となって重役会議に上げ、次の年のル・マン参戦が決まる。この辺は実に人間臭い作業の積み重ねだ。

 「昔からあるメインストレート・スタンドビル。決勝当日」
 撮影・高桐


~いざ、決戦の舞台へ~

さあ皆さんを1991年のサルト・サーキットにお連れしよう。
前の年、ユーノディエールのストレートは分断され2箇所のシケインができた。そしてこの年、新しいピットビルディングが完成し、まばゆい光を放っている。

またこの年、FIAが介入してきてSWC(世界スポーツカー選手権)の第4戦となり、レギュレーションも変わり3.5リッターのSWCマシンを優先し、
グリッドの10番目まではSWCマシンを並べなさい。という変なことになった。
 だから本来ポール・ポジションのメルセデスC11は11番手、MAZDA787Bは19番手からのスタートとなった。

 MAZDAは4ローターの787Bが2台。熟成を重ねた787が1台。計3台を送り込んだ。
 改良点は3つ。エンジン、ギアボックス等の信頼性の確保。全体性能を上げ燃費も良くする。そしてコーナリング性能の向上。
 ブレーキもカーボンでプジョーなどより肉厚のもの。(これが最後にものを言った)

 ドライバーは55号車にフォルカー・ヴァイドラー、ジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーというF1経験者(ジョニーは現役)を乗せ、突っ走っていく「ウサギさんチーム」
 18号車にはデビッド・ケネディ、ステファン・ヨハンソン、マウリッシオ・サンドロ・サラの「堅実チーム」
 56号車はピエール・デュードンネ、従野孝司、寺田陽次郎の「しっかりチーム」に分けられた。

 お読みの方に、この年のル・マンがいかにレジェンド・イベントであったか、知っていただきたい。

 あなたがピットウオールに立って見渡したとしよう。31号車のメルセデスC11のドライバーはミハエル・シューマッハという若者。プジョーの監督はジャン・トッド、今のFIA会長。ジャガーの監督はトム・ウオーキンショーだが、車両の設計及びテクニカル・ディレクターはロス・ブラウンであり、ミハエルと、トッドとブラウンという後のF1フェラーリの黄金時代を築く才能が、ばらばらにここに集っていたのだ。

 優勝したMAZDA787B55号車。3台とも生き残った。


~レースはメルセデスの天下になっていく~

 1991年6月22日、レースは始まった。
 2台の白いプジョー905がリード。しかし11番手スタートのメルセデスC11があっという間に、1周で3位まで上がってきた。他の、のろまな3.5リッターマシンはどんどん下がり、トップだったプジョーも本来24時間戦えるクルマではなく、火災を起こしたり、燃圧低下で、ピットに入った。

 レース2時間目からはメルセデスの天下になった。トップはミハエル・シューマッハたちメルセデス・ジュニア・チームの若者たち。2位はジャン・ルイ・シュレッサーなどベテラン組。
 それをポルシェや、ジャガーなどが追う展開で、MAZDAは9位あたりを走行していた。

 シルクカット・ジャガーも優勝候補の最右翼だったが、早い時期にパンクやスピンで遅れ、3時間目からはメルセデスの1・2・3体制が出来上がった。
 5時間目に入った時、ヴェンドリンガー組(シューマッハ組)の31号車メルセデスが、ピットアウト後にスピンしてボディーを壊したため修理に入った。トップはJ・パーマー組の32号車メルセデスになった。

 若者組は3位に落ちたものの夜半にミハエル・シューマッハがファステストラップをマークしている。さすがミハエルである。

 この時カーナンバー55のMAZDAは4位にいたが、我々の感想としては、
「うーん、健闘しているなぁ。でもいつかトラブルに見舞われるんじゃないか。
そうでなくとも、これが精一杯だろう」
 MAZDAの優勝など、はっきり言って想定外のこと。レースは深い闇の中に入っていく。

~深夜のル・マンに甲高いロータリー・サウンドが響いていく~

 深夜のル・マンには別の顔がある。
 20万を越える観客は近くのキャンプ場で、レースを語り、愛を語り、花火を上げる。
遊園地では木製の構造物の上を、ジェットコースターが走り、蛇女や世界一のデブ女の見世物小屋が立ち、泥酔したイギリス人たちがビール瓶片手に喧嘩を始める。

 命を賭けて走るドライバーの傍らのテントでは恋人たちがセックスしている。
 やがて疲れ果てて寝たその耳に、どこでも聴いたことのない甲高いロータリー・エンジンのサウンドが聴こえてくる。

「あーMAZDAはまだ頑張っているんだ」
 そういう思いを、私も何度も経験した。
 マツダの音は、ル・マンの天高く突き刺さる感じなのだ。
 深夜のル・マンはクルマのスペックを語る場所ではなく、人生を語る場所なのかもしれない。私にいわせれば「魂の道場」だと思っている。


 思えば、マツダがロータリーを始め、コスモスポーツが出たときには、自分はまだ学生だったが、友人をそそのかしてレンタカーを借りさせ、コスモのスピードに酔った。サバンナRX-3も思い出のクルマ。マツダワークスの寺田陽次朗や片山義美のレースを見たものだ。
 そして日本初のF1レギュラードライバーになった中嶋悟のレースデビューも、碧南マツダの田中梅夫さんが与えたサバンナRX-3だった。
 その恩に報いるため、中嶋はF1や国内レースのパドックに、常に田中さんを招待している。

~松田はル・マンにおける社交を良く知っていた~

 そんなマツダが挑んできたル・マンもこの年で13回目になった。
 ル・マンの主催者ACO(オートクラブ・ド・ルエスト)は長くル・マンに挑戦する者には一定の親しみを持ってくれる。特に日本のメーカーの中でマツダは特別であり、もはや親戚付き合いに近いものがあって、マツダが主催するランチ・パーティには、グルメス会長(当時)や県や市のお暦々が出席する。
 まさに継続は力なり。
 マツダスピード代表で監督の故大橋孝至氏はル・マンの名士であり、寺田陽次朗は街のアイドルなのである。


 そして皆が寝静まった午前5時、カーナンバー55、ハーバートたちがドライブするMAZDA787Bは、メルセデスの1号車に続いて人知れず2位の座に上がってきていた。
 しかし35号車デビー組のジャガーも、MAZDAに肉薄し、熾烈な2位争いが続いていた。

 さてここで燃料規制について触れておこう。
 1992年のスポーツカーの主流にしようと、FIAが推し進める3.5リッターのSWCマシンは燃料をいくら使っても良かったが、カテゴリー2に分類されたメルセデス(5リッターV8ターボ)やジャガー(7リッターV12)はレース全体で、2550リッターしか使えなかった。また給油スピードも1リットル1秒に制限された。
 ジャガーは燃料を節約するため、コーナーの手前でクラッチを切り、惰性で走ることまでしていた。
 でも新開発のマツダの4ローターエンジンには何の問題もない。

 さらに車両重量だが、SWCカーは800kg前後なのに対して、ジャガーは1トン。メルセデスも1トン。
 ところがMAZDA787Bは850㎏。絶妙の軽さであった。
 エンジン出力ではMAZDAは600PS程度だが、馬力あたりの重量ではメルセデスと互角であり、ブレーキ、サスペンション、燃費、すべてにおいて軽量の強みを発揮していた。

~メルセデスが苦しみ始める~

 夜間、大きなダメージを受けたのはメルセデスの32号車(パーマー組)だった。コースに落ちていた他車のリアウイングに乗り上げてアンダーボディを破損。さらにエンジンマウント部分にも損傷が出て、最終的にリタイヤしていく。
 ミハエル・シューマッハ組の31号車も夜明け前にミッショントラブルが発生し、直して走り、また直しにピットインする状態が続く。

 ジャガーも苦戦。エンジンブレーキを使わずにコーナリングしていたため、デレク・ワーウイックの33号車が何度も砂地に突っ込んだ。
 また日本から参加していたサンテック・ジャガー(神田正輝監督)もギアボックストラブルで、朝9時過ぎに止まった。

 だから夜が明けたル・マンはオレンジとグリーンに塗られた「チャージ・マツダ787B」が2位を走っていることに皆が驚愕し、衝撃が走ったといって良かった。

 朝、日本に向けてのテレビ朝日の生中継で、松苗慎一郎アナウンサーは「マツダの優勝も夢ではありません!」と絶叫していた。

 とは言え、その時トップを行くメルセデスの1号車は、午前中快調に独走しており、MAZDAには4周の差をつけている。きっとこのまま優勝を飾るだろう。頑張ったマツダもまた去年のようにエキゾウストのトラブルや、サスペンションのトラブルが出て後退するのではないか?そんな不安が、正直、私の心の中にあった。

 なぜならル・マンという場所は、日本人にとって恐竜のような存在であり、しっぽに触っては振り落とされ、首につかまっては滑り落ち、とてもじゃないが征服などできない。そういう呪縛にとらわれていたからである。


~大逆転!歴史が動いた~

 正午になった。
 もうメルセデスの優勝は固いだろう。
 私はそう思って、「ヴィラージュ・ジャポン」(日本のご飯が食べられるテント)に行き、ご飯を食べ始めた。そこにもテレビがあり、レースを見ながらの昼食であった。

 その時、トップを走っていたメルセデスのアラン・フェルテはユーノディエールのストレートに入る前に、マシンに異常を感じていた。
 ウオーターポンプのベルトが外れ、エンジンルームから、水と蒸気が出始めた。フェルテはほぼ1周してピットに戻ってきた。
 チームは原因となったオルタネーターの付け根を修理し、ベルトも新品に代わった。

 それは簡単な作業だったが、エンジンのオーバーヒートが予想以上に進んでいた。あわてて水をかける。水蒸気が上がる。動けない。メルセデスのエンジンが息絶えた。

 「メルセデスC11がピットで立ち往生。大変な事態になった」
 テレ朝画面より。


 「ご飯なんか食っている場合じゃない!」
 「マツダが優勝しちゃうぞ!」
 私は私自身にそう言い聞かせ、ピットに走った。
 ピットに着いたときメルセデスはガレージの中に消え、やがてシャッターが閉まった。

 MAZDA787Bは4周遅れだったから、都合4回メルセデスのピット前を駆け抜ける。
 そのたびに「ウオー」という歓声がスタンドに響き渡る。
 4回目、時刻は13時05分だった。
ついにマツダがトップに躍り出た時、サーキットは大歓声に包まれた。
 ヨーロッパに人々も判官びいきである。弱いものを応援する心があるのだとはじめて知った。

~夢のようなゴール。みんな夢の中にいた~

 ロータリーエンジンを搭載した日本のマツダが、ついにル・マン24時間をリードする。そんな夢物語が現実のものとなった。
 そこからゴールまでの3時間は自分が自分でないような気分。
 確かに日本に向けての中継番組をやり、自分はインカムをつけてピットにいたのだが、何をしていたのか、覚えていない。

 ただ記憶の底に残っているのはゴール20分前の光景である。
 マツダのピットに規制のためのロープが張られた。
 そのロープの中にいるマツダの関係者たち。
 私はそれをピットウオールから、目を広角レンズにして観察した。


 「55号車最後のピット。皆そわそわしている」撮影・高桐


 55号車が最後にピットインのため入ってきた。
 左でアドバイザーをしてきたジャッキー・イクスがにっこり微笑んでいた。
 自分たちのクルマは8位であるが、55号車の栄光に寺田陽次朗が早くも涙を流している。
 田知本エンジニアはまだ恐い顔をしている。
 松浦国夫テクニカルマネージャーはロープの一番は端で、もじもじと体を動かす。恐らくは鳥肌を抑えていたのだろう。

 ゴール近し。
 故大橋孝至監督と、ジャッキー・イクスが表彰台に呼ばれて歩き始める。
 その二人を見つけたジャガーのトム・ウオーキンショーが、握手で祝福する。

 そして今、私のそばで、バイドラーと、ガショーが、55号車のハーバートの帰りを待ってコースを見つめている。
 午後4時、幾万の人がコースになだれ込み、優勝したMAZDA787Bは人を掻き分けながらゴール。メカニックたちがマシンに腰掛けてガッツポーズを繰り返した。

 「優勝!人込みを掻き分け、ゴール」TV画面より。


 最終ランナーのジョニー・ハーバートは、極度の脱水症状のためメディカルセンターに運ばれ、水分と酸素吸入を受けることになり表彰台は欠席した。

~腹の底に響いた君が代と、ひるがえる旗~

 メインポールに日の丸が揚がった。
 大音響で君が代がなんと2回も流れた。
 振り返ると、厳しい初の出張だった長嶋三奈が泣いていた。
 私も泣いた。
 人が多すぎて、もはや松浦国夫の姿を見失う。

 「今の世の中、本当に泣ける仕事は少ない。でもル・マンは男が泣いてもいい場所なんです」
 そう言っていた松浦。きっとどこかで泣いていたのだろう。

 まったくのノートラブル。
 マツダは素晴らしいレースをし、勝つべくして勝った。
 その基本は、愚直に地道に技術を磨いてきたことに尽きる。
 中心にいたのは社歴35年、ロータリーともに歩いた無骨な松浦だった。

 「今の時代、若い人はコンピュータに頼りすぎます。自分の目で見て、音を聞いて、匂いをかいで、正常か異常か判断しないと良い機械は生まれません」
 そんなことをつぶやいていた大ベテランも今は定年退職なさったと聞いている。

 帰国する飛行機、エールフランス276便で、再び松浦国夫氏に会った。
「山本会長は先代の松田会長の墓前に優勝報告したそうです」と一言。

 広島の青い空、青い海。素朴な少年が、ひたむきに生き、研鑽を積み、掴んだ人生最大の宝物であった。

 「優勝記念のテレホンカード」


(この記事は、当時のメディアに本人が書いた原稿を元に新たに書き下ろしたものです。)

了。