わが心のル・マン28年史 その10 1994年第一話(イントロダクション)「チーム国光は、まるで大河小説。そしてHONDAのル・マン挑戦秘話」


闇夜のル・マンには、魔物が棲んでいる。
近寄るな! 去れ! 立ち止まるな! 行け!
遠く、天まで届くかのようなエクゾウスト・ノウト、
傍らで、酔いつぶれる人々。
ここは、人間の魂を試す場所。
この、おどろおどろしい闇を越えたものだけが
人間として認められる。

高橋国光と、土屋圭市、飯田章は、
大海に漕ぎ出した、小船のように、
翻弄され、母に祈り、神に祈り、
突き進んだ。

さあ、1994年のル・マンを書くときがやってきた。
でも、すいすい、起きたことだけを、時系列で書くわけにはいかない。
私には、長らくこの人々を見てきた、語り部としての責任と義務がある。
丁寧に、歴史を追って物語を紡いでいきたい。 


~偉人・高橋国光~

(高橋国光は偉大。日本の宝物だ)
Photo Kikuchi


1961年・西ドイツグランプリ。二輪の世界GPで日本人として初めて、日の丸を揚げたHONDAのライダー、高橋国光は、1962年シーズンも、何回も優勝したが、マン島TTレースで大事故に遭い、瀕死の重傷を負った。
入院、手術、そして退院後、復活。再び世界を転戦、二輪レースに出たが、もはや優勝は叶わなくなっていた。

国光の二輪最後のレースは、1964年5月のフランスグランプリだったが、帰国した頃、電話が鳴った。
「国光、お前、四輪をやらねえか? 俺は今、日産にいるんだけど」
 電話の主は二輪GP時代の先輩、田中健二郎だった。

 国光は迷いに迷い、HONDAの取締役、河島喜好に相談した。当時HONDAはF1に打って出ようとはしていたが、四輪車は軽トラックとS500があるだけだった。      河島は日産入りを認め、改めて日産自動車の難波靖治がHONDAの河島を訪問し、国光の移籍を依頼、河島も快諾した。

 こうしてはじまった高橋国光のレーシング・ドライバーとしての生活は、その後R380での名勝負や、F1、スカイラインGTRなどでの活躍などがあり、凄いレジェンドストーリーを残してF2時代へと入っていくが、1978年まで続いたスピードスターとの契約満了で、一旦終止符が打たれた。

 1980年、40歳で浪人状態だった高橋国光の伊豆の自宅に、横浜ゴムの水野雅男が訪ねてきた。
「ADVANというタイヤでF2をやるので乗ってほしい」と依頼。
 そこから高橋国光のミスター・アドバンとしての人生が始まった。

 同じ年、放送作家であった私(高桐唯詩)は、広告代理店の友人から「アドバン・サウンド・コックピット」という番組の企画のテコ入れを依頼された。
「レースに寄り添った内容にしたい」ということだった。
そこから再び、私のサーキット通いが始まり、レースリポートとレースサウンドの番組が放送されていく。高橋国光さんを取材するため、伊豆のお宅にも足を運ぶようにもなった。

(1994年ついにNSXがル・マンへ)
Photo Kikuchi


~才人・土屋圭市登場~

 土屋圭市は昭和31年(1956)長野県小県郡東部町(現・東御市)で生まれた。親に楯をつき、家出し、さんざん悪さをした後に、レースを知り、フレッシュマンで走り始めた。
そして1980年に結婚。1982年、長男が生まれることになった。

そんな82年4月、土屋は、憧れの高橋国光に会い、こんなお願いをする。
「僕、今度子供が生まれるんです。国光って名前をつけたいのですが、よろしいでしょうか?」
「へえー、なんだか嬉しいような、恥ずかしい気分だけど、名前をつけるのは自由だからいいんじゃないの。で、君の名前は?」
「はい。土屋圭市と言います。フレッシュマンで、アドバン・サニーに乗っています」

 圭市は、それから、めきめきと腕を上げ、横浜ゴムの水野雅男にも認められ、若手のアドバンタイヤ使いとなり、アドバン・カローラでプロデビュー。
ドリフト走行で名前を上げ、1991年にスカイラインGT-Rにたどり着く。その時の相方は故高橋健二だった。

 当時、熱血のチームオーナーであった、タイサン工業の千葉泰常は、大のクニさんファンであり、アドバンファン。千葉は考えた。「あのカリスマ国光と、現代のカリスマ、ドリキン土屋を組ませたらどれほど面白いだろう」
 1992年ついに国光、圭市のコンビが実現した。

(1993年のSTPタイサンGT-R
右端で見ている私と日置和夫さん)
Photo Hatano


 時を同じくして、土屋は、水野雅男の推挙もあり、ラジオ番組「アドバン・サウンド・コックピット」の新しいパーソナリティとなり喋り始める。そこで筆者との交流が生まれた。
 さらに1993年シーズン、やはり国光ファンの西ヶ谷周二(当時、トランスポーツ代表)たちの運動で「チーム国光」が発足し、スタートして行くのである。 この年、高橋国光53才。土屋圭市37才。飯田章23歳。

 さて1993年、チーム国光は、STPタイサンGT-RによるグループAのレースをやり、菅生で3位。大分阿蘇レーシングパーク(オートポリス)で優勝。絶好調を迎えるのだが、この年一杯でグループAのレースは終わった。

 1994年からは、STP圭市シビックで新しいツーリングカーレースに出ることになった。その車両はもう「町のレーシング・ガレージ」がメインテナンスするものではなかった。

~HONDA 橋本健のこと~

 STP圭市シビックはHONDAがじきじきに開発した。
 テストに現れたのは「本田技術研究所栃木研究所」の主席研究員の橋本健(当時44歳)だった。

 橋本健は昭和24年(1949)東京生まれ。1971年に入社し、78年からはアメリカホンダ勤務のあと、HONDAが始めて作るミッドシップ・スーパー・スポーツカーNSXの開発に携わり、フォーミュラカーも研究して川本信彦社長(当時)に内緒でF1の車体まで作ってしまった男である。

 シビックプロジェクトに参加した橋本は、圭市のことを信用していなかった。
「テレビやラジオで、ちゃらちゃらしてるやつを、なんでウチのクルマに乗せるんだ?」
「イヤ、速いんです」
「ホントか?」
それでも橋本は信用ならんという態度で圭市を無視し、最初の頃、食事どきも同じテーブルに誘うことはなかった。

 HONDAは1992年いっぱいで、第二期となるF1レース活動を休止していた。
ずっとF1の現場にいた市田勝巳や木内建雄など、多くの技術者たちは残念がったが、それでもF1にいけた連中は幸せだった。
 橋本健たちは、いわば、次に続こうとして、はしごを外された組である。
 だから、川本社長に「お前、F3000の空力モディファイ考えてくれ」といわれて、思い切りF1オリジナルシャシー「RC01B」を作ってしまう。そういう、やんちゃな精神が橋本にはあった。

 橋本は考えた。「自分が開発に取り組み、ヨーロッパでも人気のNSXを使って、F1よりも身近にHONDAの技術を提供できるものはないだろうか?」
「そうだ。ル・マンに行こう」
 NSXの実力を試すために、国内でレースするのではなく、いきなり、世界の大舞台ル・マンに打って出る。このあたりが、大物、橋本らしい発想であった。


~1994年の大枠が決まっていく~

 橋本健自身は1993年半ばから、
「どうしよう。どういう組み合わせにしよう?1台じゃあ、話にならない。ヨーロッパからも人材を出してもらって、日本人のチームが一つ、外国人チームが一つか二つ」と、頭を悩ませてきたて、93年暮れぐらいに、だいたいまとまってきた。

 それは「ホンダ+ヨーロッパ連合軍」の発想だった。
 レース用のNSXモディファイは、イギリスのTCPという工場に発注する。
 レースのオペレーションは、ル・マンをよく知るドイツのクレマー・レーシングに任せる。技術的なリードは、自分たちHONDAがやる。
 スイス・ホンダや、フランス・ホンダがそのほかのソフト部門を担当する。

 1994年は、最初のチャレンジだから、見栄を張らないでGT2の部門に参加する。クルマは3台。うち2台は外国人ドライバーを中心に乗せたい。
 もう一台は日本人主体のチームにしよう。ここまで橋本が考えて、青山本社のしかるべき人間たちに相談すると、「ル・マンの経験が豊富で、ホンダにかかわりが深く、ネームバリューのある人」が必要だという。
 橋本も、本社の人間も「高橋国光。国さんしかいない」そう思った。

 HANDAの1994年ル・マン参戦は、こうして秘密裏に進んでいった。

(車検場に姿を現したNSX勢)
Photo Kikuchi


しかしここにビックリする秘話がある。

 ル・マンに参戦するためには、億単位の予算が必要。技術研究所はレースをする組織ではない。あくまで研究する組織である。
 レースできるのはHONDAのモーターレクリエーション推進本部しかない。ここでモーターレクリエーションのメンバーは苦労した。実は社長がうんと言わないうちに、計画を発表し、どんどん進めてしまった。(恐らく当時の川本社長は、知らんぷりしながら、実はこのたくらみを、よくわかっていて、やりたいようにやらせた。と見るのが正しい)

 1993年の暮れ、土屋圭市は、六本木のカラオケパブみたいな場所で、忘年会を開いた。いつもなら先頭を切って歌う土屋圭市が、歌わない。

 奥でひそひそとチーム国光のマネージャーである松崎(当時)と話していた。
「あのね、こういう話があるんだけど、ホンダが、来年、ル・マンを走るかもしれないんだ。チーム国光としてこれを受けようと思っているんだけど」
「クルマは何ですか?」
「今、ちょっと、ここでは言えないんだけど」
「NSX」
「まあ、そういうこともあるかもですね」
「面白いじゃないですか。やってみましょうよ」

このように1994年HONDA NSXのル・マン参戦と、土屋圭市のル・マンデビューは始まっていくのであった。      (了)

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(ル・マンに入った土屋圭市を外山ディレクターが取材。
私もそばに)Photo Hatano