わが心のル・マン28年史 その31 1999年第三話「残念だったNISSAN R391のチャレンジ。たった1台の決勝も実らず」


 1998年、NISSANはR390で星野一義・鈴木亜久里・影山正彦組が3位表彰台。
他も5位、6位、10位と、全車TOP10完走の大成功を収めた。
 こうなると次に狙うのは総合優勝だが、その一文字がいかにも遠い。

 1998年が終わって、すぐに次へのチャレンジは開始された。
 それは、屋根ありではなく、屋根なしのクルマ、R391であった。
 しかも、もう海外のTWRなどに全面的に頼むのではなく、
NISMOのデザイナーが独自に設計して、イギリスのGフォース社と
共同でマシンを制作していく方向に変えた。

総監督は柿元邦彦。
 デザイナーは永島勉、この時42才。
 コンセプトは軽量、コンパクト、シンプル。車体はカーボンモノコック。
 エンジンはV8、5.0リッターのNAであり600馬力以上。
 やりようによっては、とても素速しっこく、
レースをかき回してくれそうな印象があった。

「車検場に現れたNISSAN R391」


 ただ、我々はスポーツとしてNISSANを見ているが、
経済という観点から見ると1999年の日産は
2兆円の有利子負債を抱え、3月にゴーン社長の投入が決まり、
ルノーの傘下に入るというビミョーなタイミングであった。

 現場では、レーシング・スーツの生地を模した贅沢そうな資料が配られ、
R391マシンの模型が付いた携帯電話ストラップもプレゼントとしてもらい、
ホスピタリティもしっかりしていた。だから、大丈夫感がある反面、
カルロス・ゴーンが来たら、もうレースはないだろうなという予感はあった。

「こんな可愛らしいR391の携帯ストラップをもらった」


 R391は決して悪くはないマシンだった。
 オープントップで操作性、整備性が良さそうだ。
 出来上がったのは3月で、5月にはもう予備予選があり、6月には本番。
 時間がない中で、新車をセッティングしていくのは至難の業だが、
 そこそこ、よいパフォーマンスを見せた。

 予選では22号車を本山哲が中心となって、進めていった。
 まず3分51秒960。やがて3分45秒326と、伸ばしてきた。
 だから「悪くない」印象だった。

 ところが冷や水を浴びせるような出来事が起きた。
 予選が始まって40分。TOYOTAの3台が1・2・3となった直後、
 19時45分くらい、テルトル・ルージュで23号車がクラッシュしたのだ。
 
 乗っていたのはエリック・バン・デ・ポール。
 ただちに赤旗が出て、セッション中断。
 ガードレールに対して直角にクラッシュしており、10分経っても
 エリックの体が出てこない。
 ようやく20時に救出されて、体を横たえ、ストレッチャーに固定された。
 バン・デ・ポールは、脊椎にヒビが入る怪我で、全治4週間と発表された。

 23号車のマシンは、モノコックに穴が開き、使い物にならない。
 23号車はこの時点で欠場となり、鈴木亜久里と、影山正美の二人は、
 1999年のル・マンで1メートルも走ることなく、消化不良の面持ちだった。

 もう一台の22号車は本山と、エリック・コマスと、ミハエル・クルムという組み合わせ。
 その後(9日水曜予選)クルムが乗って3分40秒063まで詰め、
 最終的には(10日木曜予選)でクルムが3分36秒043をマーク。
 14番手からのスタートとなった。

去年3位表彰台に乗った星野一義は、この年はNISMOのゲスト
というか、応援団長というか、見に来た人になった。
 ル・マンは引退。GTからは2002年に引退することになる。
 気楽といえば気楽だが、それでもクラッシュなどを見ると
他人事ではなくなるし、タイムも気になる。
 でも「成田で1800円のカメラ買ってきた」と
楽しそうだった。

「もうル・マンを走ることはない。今年はゲストの星野さん」


「ヨーロッパの連中はレースひとつでやっていけるのが凄い。
技術集団で集まっていて、技術を持っていて、それをメーカーに売る。
日本のレース界は、メーカーが作った技術を、許可を得たチームが
使わせてもらう立場だからね」
「レースに対する社会の見方も日本はまだまだだから」
 まさに野村監督のように世相を切りまくっていた。
 
 で観戦ツアーの一般客とバスに乗って説明したり、
応援で旗振っていたが「もう勘弁してよ」と苦笑した。

 決勝当日朝のウオームアップ。タンクを満タンにして、クルマなりに走って、
6番手のタイム。素性は悪くない。タイムの出せるマシンだった。

 決勝のスターティングドライバーはエリック・コマス。
14番手から1周して10位につけた。
 6周目、また一台抜いて9位。さらに1時間後には7位まで上がった。
 22周した後、本山哲の番になり、1スティント目は様子を見ながら走り、
2スティント目は、流れに乗って、順位を上げていく。
 18時56分ミハエル・クルムに交代。
 20時26分再びコマスに代わった。
 この頃やや、バイブレーションが出始める。順位は4位まで上がっていた。
 22時8分、左リアタイヤのブローから、フロントカウルの立て付けがおかしくなり、チェック。

「夜を迎えて徐々にトラブルの目が」


 22時21分、再びピットインして、本山に代わり、フロントカウルを予備のものに交換。
 そうして走り始めた本山だったが、23時半頃、ポルシェカーブと、フォードシケインの
途中でエンジンが止まった。
 本山はそこから1時間、自分で直そうと懸命にカウルを開けるが、
電気系のトラブルであり、原因はわからない。
 チームの判断で24時46分リタイヤが決定した。

 ニッサンR391が活躍したのは、わずか7時間ほどであった。
 もし2000年もNISSANがル・マンを継続していれば、上位もあり得ただろう。
 しかし2000年にNISSANの姿はなかった。
わずかに1999年のル・マン富士でTOYOTAを押さえて優勝。それが唯一の優勝だった。

それからNISSANは2015年のル・マンまで、公式に姿を見せることはなかった。
ただ2兆円の有利子負債があった1999年の危機から、回復し、
 2016年あたりで、純資産5兆円。総資産17兆円という安定した体質となった。

 話は変わるが、ニッサンのモータースポーツの原動力となり、
NISMOの社長として長年活躍された難波靖治さんは2013年11月27日に
逝去され、戸塚で行われたご葬儀に私もうかがった。


「難波靖治さんと私。本当に多くのことを学ばせていただきました」


 こうした先達の力があってこそのル・マンチャレンジだった。
 NISSANもまた、ル・マンやWEC、世界のレースに向けて、
新たな挑戦をしてほしいと、心から願っている。


 この項 了。