NISSANは1997年の屈辱から、1年を要して、
R390の熟成に努め、脅威の4台体制でル・マン乗り込んだ。
私はAUTOSPORTに執筆したはずだが、97から99までの
雑誌をマンションの大規模修繕時に紛失してしまったようで、
執筆の記録を探れない。
その一方、
記憶になかったのだが、「N-BLOOD」というNISSANの
機関誌に原稿依頼されて執筆し、その雑誌は保存されていた。
星野一義に密着したドキュメントであり、
走り終えて、裸になって、汗をぬぐう所に飛び込んで、
言葉を引き出す、かなり凄い取材だったことを覚えている。
その原稿を、今回少し推敲しながら、現代の読者に届けたいと思う。
それでは、原稿を始めます。(ここから当時の文章)
(N-BLOODより)
~ニッサンは速さよりも24時間後の結果で勝負~
星野一義は日本レース界の象徴的存在である。
ゴルフで言えば、ジャンボ尾崎である。
強く、厳しく、そびえ立つ日本の壁である。
その星野一義が今、静かにル・マンへの挑戦に
終止符を打とうとしている。
寂しく、悲しい。出来ることなら、長く挑戦し
続けてほしい。
しかし、97年4月24日、ル・マンに集中するために
フォーミュラのシートを若手に譲り、そして、6月14日、15日に
ル・マンでの優勝を目標に走ったがトラブルに泣き、12位だった。
そして、ついに、9回目のチャレンジとなる今年(1998)をもって、
ル・マンを走る最後の年にしたいと発表した。
来るべき時が来たのか・・・・。
「長い間乗ってきて、乗りすぎたとも思える。どこでけじめをつけるか、
判らないけれど、今までやりすぎたんじゃないか」
6月2日ジャコバン広場の車検場で逢った星野一義は明るかった。
「今年のル・マンは自分の名誉より、チーム、ひいてはニッサンのために走ろうと
思っている。とにかくロングランテストで、(R390の)耐久信頼性は一番だから、
期待出来ると思うよ」
星野は今回、三種類のお守りを持ってきた。
故郷・静岡の浅間神社。
厄除けの川崎大師。
三鷹の神明社のお守り。この三つだった。
「神主さんに祈祷してもらうんだ。セタガヤク、キヌタ、ホシノカズヨシ、
フランス、ル・マンってやってもらってきた」
まわりは大爆笑。星野は、今年ル・マンにやってきた11人の日本人ドライバー中、
一番明るく、リラックスしていた。
1998NISSANのドライバー・ラインナップはこうであった。
30号車 ジョン・ニールセン フランク・ラゴルス ミハエル・クルム組。
31号車 エリック・コマス ヤン・ラマース アンドレア・モンテルミニ組。
32号車 星野一義 鈴木亜久里 影山正彦組。
33号車 黒澤琢弥 本山哲 影山正美組。(JOMOがスポンサー)
実は今回、有料発売しているオフィシャルプログラムにNISMOが大々的に
特集され、ドライバーや柿元総監督が写真入りで紹介されていた。
TAKAGIRI TADASHI
「こちらの雑誌では、本命のように書かれていて迷惑してます。できれば
ほっといてくれと言いたい(笑)」と柿元さんが語る。
6月3日午後7時、ル・マンのコースに一斉にレース車両が入った。予選開始。
筆者はこのところ、最初の走りは、コースで見ることにしている。
場所はニッサン・シケイン。
空高く、青い雲。小さな家があり、緑が風に揺れ、鳥が鳴く。
オフィシャルの笛が鳴り、一斉に配置に付き、ゴウゴウたる音が近づいてくる。
その瞬間がたまらなく良い。

TAKAGIRI TADASHI
NISSANの32号車のドライバーは鈴木亜久里。TOYOTAの27号車のドライバーは、
片山右京。かつてF1を戦った二人が、ル・マンでT・Nに分かれ、走っている姿を
感慨深く見つめた。もっと言うと、ちょっと感極まって熱いものが込み上げた。
予選初日、ニッサンは31号車が11位。32号車は14位、30号車が18位。
そして若者たちの33号車が21位で終えた。

TAKAGIRI TADASHI
6月4日午後、2回目の予選の前に星野一義と話し込んだ。
「予選の順位は関係ない。ル・マンはロングラン、ロングランだからね。今日、
亜久里がもう少し詰めてくるとは思うけど・・」
話は次第に、引退問題に入っていく。来年のル・マンは、もうないのか?
ズバリ聞いてみた。
「16歳で学校辞めた時から、自分の行動は自分で決めてきた。
今年の決心は2~3ヶ月かかったけど、これも自分で決めた。
自分をもう、許してあげよう。
この先、53才、54才と引き延ばして、何が、残る?
もう楽させてあげたいのよ。
毎日怯えて(おびえて)、ストレスが出て、
レーショング・ドライバー『星野一義』
の看板は僕にとってものすごく重いものだった」
「その看板がなかったら、ものすごく楽だろうなって、いつも思っていた。
だから決心ついた今は、楽だね」
「でも昨日の夜も、満タンで“ちょっと行ってください”と言われると、
もう燃えちゃうのよ。夜、暗い中でも3分49秒とか行っちゃう。
乗ったら負けないって気持ちは出て来ちゃう。ただ、乗るまでの心境は(ここ30年の中で)
ものすごく楽なんだ」
星野一義の明るさのわけは、ここにあった。
もうこれが最後、そしてこの一年いっぱいくらいで、重い看板を降ろせる喜びが、
星野をハッピーにしていた。
乗り込むまでは明るく。乗り込んだら集中して、星野一義本来の走りをする。
ファーストドライバーは鈴木亜久里に任せ「俺が、俺が」と口出ししない。
まさに星野一義が口グセのように言う「のれんの奥でうどんを作る職人」に徹し、
実にメリハリの効いたル・マン生活をエンジョイしていた。
ニッサンはこの日、タイムを上げ、30号車が予選10位、31号車が13位、星野組32号車が
14位、ノバチームの33号車が19位から決勝に臨むことになった。

TAKAGIRI TADASHI
6月8日、決勝の朝は霧が立ち込め、小雨も降っていたが、
次第に晴れて、暑くなり、風も出てきた。

TAKAGIRI TADASHI
午後1時51分、エンジンに火が入り、各車フォーメーションラップに入っていく。
32号車のスターティングドライバーは、星野一義である。
チームは、星野・亜久里・影山兄の順でドライブする計画だ。
1スティントは12周。これを2回やって交代する。
レースは華々しくスタートした。序盤はトヨタとメルセデスがトップ争いを演じた。
星野一義は慌てず騒がず、上位のそうしたせめぎあいにからむことなく、
当初の計画通り、3分53秒くらいのラップタイムで、順位をキープする。
2スティント、23周を終えてクルマを降りた星野は、
「別に悪いところはない。マイペースを守った。タイムが悪いとか言われているがこれでいい」
メルセデスは、1時間13分で1台が消えた。2台目も2時間で消えた。
クルマ全体を制御する油圧システムの低下だった。
またBMWのプロトタイプカーも、ハブベアリングの焼き付きから早めにリタイヤを決めた。
星野は午後6時30分から、2回目の走行に入った。
ラップタイムがやや上がって、3分50秒台。順位はトップから3周遅れだが、8位。
着々と仕事を進める。
午後8時13分2スティントを終え亜久里にステアリングを渡す。
星野は脱兎のごとく走る。筆者も追いかける。
ニッサンのモーターホームに戻って、まずシャワーを浴びる。
シャワーを終えても、汗の出が、止まらない。
バスタオルで拭き拭き、筆者と言葉を交わす。
「えっ、うん、真面目に走ったよ。3分50秒くらい?自分を輝かせようなんて
気持ちはサラサラないよ。パワーがね。もう少し欲しいな」
「TOYOTAは速いね。えっミッション変えたの?走っててミッション変えてると
権利無くなって、がっくり来るよね。ゴルフも切れちゃうと終わりで、レースもそう」
「今年のニッサンは壊れない。技術のニッサン。内製のニッサン」
去年、ニッサンはレースの後、クルマを完全にバラし、3000個の部品をひとつひとつ
再検討し、今年用に改良を加えた。部品はX線でチェックし、テストにテストを重ねた。
その結果として、R390GT1に絶対的な信頼が生まれていた。
「俺も丈夫だ。壊れない(笑)20年間、風邪ひとつひかない。ゴホンゴホンと咳したこともない」
そう言いながら、かけそばをすする。まだ肩から玉の汗が出る。
~午後12時38分。幸運は星野に舞い降りた~
午前1時20分、遠雷の音響き、コースに雨が落ち始めた。
特にコース奥(インディアナポリスから)は雨脚が強かった。
星野から代わった亜久里は慎重に駆け抜けたが、影山正美がドライブする
33号車は足元をすくわれクラッシュ、修理が始まった。

TAKAGIRI TADASHI
30号車と31号車も細かいトラブルが出て後退したが、星野組32号車は、
唯一ノーミスで朝を迎え、4位につけていた。
早朝に走った影山正彦は「こんなプレッシャーの中、走ったことがない。
責任感で胃が痛い。膝もがくがくだよ」と語る。
トップはTOYOTA.2位、3位はポルシェ。星野32号車は単独の4位。
星野は、6月7日朝10時25分に乗り込み、ル・マン、サルト・サーキットの
ラストランに入った。
いつもいつも苦い思いで、ル・マンをあとにした。
しかし今年は壊れる心配なし。3分48秒5前後の安定したラップタイムで走る。
日が昇り暑くなった。
外気が、吸気口から入るのだが、
「いやー、強制空冷は気持ちいいね~」と無線で冗談を言う。
昼の0時03分。あと2時間を残して亜久里に交代。
シートを降りた星野は、汗も拭かずにモーターホームの外にある
椅子に腰かけて、ボーッと何かを考えているようだ。
とうとう星野一義のル・マンが終わってしまった。
「なんか。終わったって感じだね」
そう筆者に言うと立ち上がってシャワーに行く。
しばらくして、再び話し出す。
「あのクルマのベストはやった。3分47秒にも入ったからね。とにかく
信頼、耐久性は素晴らしい。ミッションを内製にし、何から何まで、
ニッサンの技術陣がまとめてきたんだ。技術のニッサンを褒めてあげたいね。
ニッサン・ニスモとTWRのジョイントも、方向性が決まれば、素晴らしいものができる。
ただ、エンジンは足りないね。もう少し馬力は欲しいな」
「いやー、でもニッサンには感謝している。ただ速いだけの、
モーターサイクルの男を四輪に乗せてくれて、社会人の何たるかを
教え込んでくれた。僕はいい人生だったと思う。僕は本当に運のいい男だった」
ル・マンのど真ん中、エグゾウストノウトが空に向かって響き渡るパドック。
筆者は星野一義と二人きりで話していた。その時ニスモの女性が、こう告げに来た。
「星野さん、いま、29号車が、どこかで止まったみたいです」
時刻は午後12時38分だった。レース終了まで、1時間と22分。
トップだったトヨタのTS020がフォードシケインでストップ。
ギアボックストラブルだった。
この結果星野組32号車が3位に上がった。
関係者やジャーナリストが星野の周りに集まってきた。
「まだ喜んじゃいけない」
「まだ喜んじゃいけない」
「ドラマは起きた。まだ喜んじゃいけない」
星野一義は珍しく3回もこんなことを言う。そして最後に。
「効いたね。お守り」
そこにいた全員大爆笑。
1998年6月7日午後2時、鈴木亜久里が隊列を整え、
4台のニッサン車がゴールした。
(N-BLOODより。撮影はMASAKATSU SATO)
32号車が3位。30号車が5位。31号車が6位。
そして若手の33号車も10位フィニッシュ。
ニッサンの1998年は全車10位以内完走という素晴らしい結末だった。
晴れの表彰台。
「カズヨシホシノ、アグリスズキ、マサヒコカゲヤマ」
と呼ぶ、アナウンスの声が響き、登場する三人。
日本人ドライバー、日本車、日本人スタッフで成し遂げた3位。
星野は笑い、時には涙ぐみ、手を挙げて、応えた。
日本一速い男は、こうしてル・マンを卒業しようとしている。
誰にもその決心は変えられない。本人の固い決意だ。
我々は、走る闘魂、星野一義の情熱を語り継がなくてはいけない。
熱い、熱い、星野時代を語り継いでいこう。
今、心穏やかに、人生を語り、静かに幕が下りる星野イン・ル・マン。
その存在と、パフォーマンスに感謝。
おめでとう。そしてありがとう星野一義。
この項。了。