わが心のル・マン28年史 その16 1995年第四話「サード・加藤眞の慚愧と、ミスター・ル・マンの快走。健闘するも残念な人たち」


 ル・マンにエントリーする時、普通はTOYOTA とかNISMOとか大メーカーの名前で出場するのが一般的に思えるけれど、実はSHIN KATOで通ってしまう日本人がいる。SHIN KATOとはもちろんSARD元代表の加藤眞さんのことである。

 加藤眞は、1973年に富士GC用の2リットルマシンを改造した「SIGMA MC73」で日本人として初めてル・マンに出場した。
翌1974年には「SIGMA MC74」で初の完走を果たすわけだが、エンジンはその年MAZDAになり、MAZDAにとっても初のル・マン挑戦という記録が残り、なおかつ寺田陽次朗にとって初出場となるのである。

 我々は、日本からの挑戦というと、ついつい、企業力とか、金銭力がないと相手にしてもらえないような錯覚を持ってしまうけれど、ル・マンの側、つまり、主催するフランスの西部自動車クラブから見た場合、1972年に、はるかに遠い、東洋の国から、わざわざ出場する方法を聞きに来て、1973年に自作マシンで出てくるような人は、「大歓迎すべき友人」なわけで、先方にすれば、TOYOTAという名前よりSHIN KATOの方が親しい「モンナミ」なのである。
 もちろん、寺田陽次朗も長年来てくれる友人であり長く付き合ってきたからこその、信頼が芽生える。もはや親戚のような間柄なのだ。

 そのSHIN KATOといえば1994年TOYOTAのCカーで、あと一歩のところで優勝を逃し、それでも鬼神のリカバリーで2位に入った。言ってみれば「名将軍」であり、極めて尊敬される存在である。(このエッセイ、その14 1994年をご覧ください)

 そのSHIN KATOが1995年は、しくじってしまった。
 言葉は悪いが、ぼろぼろのレースをしてしまった。
 GTカーの時代になり、急ぎ足で準備した2台の異なるクルマ。
 これが、得手勝手にトラブルを起こし、チームを苦しめたのである。
 
 おそらく1995年という年は、加藤にとって忘れ去りたい思い出だろう。
 しかし申し訳ないが、私は書き残しておきたい。

(ル・マンのオフィシャルプログラムにはSHIN KATOの文字が。もはやル・マンの有名なブランドだ)


 この年、加藤眞は、スープラと、MC-8Rの2台でル・マンに挑むことにした。
 スープラには、ジェフ・クロスノフ、マウロ・マルティニ、マルコ・アピチェラが乗る。
MC-8Rはケネス・アチソン、アラン・フェルテ、そして吉川とみ子というラインナップだ。

 スープラは日本のGTで走り始めたものをル・マン用に煮詰めた。エンジンは3SGTEで推定馬力700馬力。ただミッションはXトラック社の6速。
 MC-8Rは100%サードによるオリジナルマシンで、V8の3968CCにターボ。
こちらのミッションは、ヒューランドのH型。

 テストは国内、ノガロ、ポールリカールなどであったものの、根本的な耐久テストではなく、ほぼぶっつけ本番で、現地に入った。

 加藤自身、今年は様々なトラブル覚悟でやってきた。そしてニッサンと同じように3年計画で、このGTカーを何とかしようという思いだった。

 しかし予選初日からMC-8Rはトラブル。まずウインドスクリーンが浮いて満足に走れない。次にクラッチトラブルが出た。翌日はインテークマニホールドが壊れた。吉川はアタックチャンスがなく、出場できなくなり、アラン・フェルテとケネス・アチソンの二人で戦うことになった。

 一方のスープラも、馬力はあるが、トラクション不足でストレートでまともに走れない。リアのダウンフォースを多くすると、ストレートスピードが落ち、両方満足させるとすれば、フロアの形状から見直さなければならない。要するにル・マンのスピードについていけないということだ。予選はスープラが30位。
MC-8Rが31位だった。

 決勝になると、MC-8Rはスタートからつまずき、クラッチトラブルでスタートできない。1時間半してアラン・フェルテが乗ってようやくコースへ。

(SARDが作ってきたMC-8Rだが、トラブル続きで、足を引っ張った)
(Takagiri Tadashi)


 スープラの方はクロスノフが乗って順調にポジションを上げていく。
 27号車スープラはアピチェラに代わり、18時45分マウロ・マルティニに交代。19時の順位は20位だ。同じころ、26号車MC-8Rは再び、クラッチ交換。

 でも27号車スープラも例のXトラック社の6速シーケンシャルを使っており、だんだんやばくなり、21時30分に交換。これで1時間近くピットに居た。順位はほぼビリへ。

 深夜3時34分。ラジエター修理、アンダートレー修理。辛い夜が続く。
 朝5時からはクロスノフ。6時45分からアピチェラ。7時53分マルティニとつなぐ。
 結局、辛抱強く走り翌日の16時には14位でゴールするが、MC-8Rは朝の5時にピットから出て行ったが、戻ることなくリタイヤした。

(MC-8Rはクラッチトラブルで、ピットに居ることの方が多かった)
(Onishi Yasushi)


 いつになく加藤眞の表情が、冴えない。自分に怒っているのか?(あれほどの栄光を率いてきた自分が、まさかこんな無様なル・マンをやっている)その気持ちなのだろう。疲労感が漂う。

(とことん、疲れ果てたSHIN KATO こんなはずじゃなかった)
(Onishi Yasushi)


 ル・マンというフィールドを最もわかっている加藤眞。しかしいろいろな流れで、この体制でやらざるを得なかった。ライバルたちは進化し、マクラーレンGT-Rは、MC-8Rの対極にある素晴らしい完成度を持っていた。あの当時の日本のGTカーにはそこまでの徹底したものがなかった。

一方のMAZDAはアメリカのIMSAシリーズに出ているジム・ダウニングと、
マツダスピードが、今でいうコラボしたチームで出た。
 マシンは、DG3。僕たちは、Kudzu Mazda(クッズマツダ)と呼んでいた。
ル・マン本番では、1991年に優勝した時のカラーリングで現れた。

(これはチャージカラーじゃなく、マツダのカラーなんだそうだ。でも一服の清涼剤だった)
(Onishi Yasushi)


 このマシンは4ローターではなく3ローターなので500馬力に満たない。
それでも若手のフランク・フレオンがアタックし19番手を得た。
 決勝ではこれで17回目の出場となる寺田陽次朗が乗り込むが、フロントノーズの高さ調整に手間取りピットスタート。
 夜、雨が続き、セッティングを変えた。ハイダウンフォース、リアも角度をつけ、路面に対応。ここからまた地道に走り、最終的には、7位という好成績でル・マンを終えることになった。
 この年MAZDASPEEDのパドックには、東京・神楽坂でイタリア料理店を営むカルミネさんがケータリングのシェフとして参戦(寺田さんが連れてきた)
素晴らしいパスタが味わえた。当時は、今ほど有名じゃなかったけれど、素晴らしいアイデアだった。

 さて残念なのはフェラーリ・クラブ・イタリアにジョイントする形で参戦した太田哲也選手。日本でもおなじみのオロフソン選手がアタックして、GT1最上位の8位からスタートした。しかし決勝では、太田がドライブした42周目に、ギアが破損し、コース上でストップしてリタイヤを余儀なくされた。
 このチームには自動車、船舶評論家のドン、山崎憲治氏もいた。

(フェラーリ・クラブ・イタリアのF40 プログラムから)


 またフライジンガー・レーシング・チームのポルシェに乗った羽根幸浩選手だが、予選は9周しか走っておらず、レースでコースを覚えるような状況だった。
このチームは、ポルシェエンジンのチューニングで名高いフライジンガーがやっているのだが、残り6時間ぐらいから、エンジンが不調となり、それでも19位完走となった。チームにはルノーF1の関係者で、ルノーのレーシングパーツ等を扱う株式会社シーフォの藤井照久さんもいて、パドックで食事(たこ焼き、焼きそばなど)を作っていたよと、近年、思い出話を聞いた。

(フライジンガー・レーシングは普通白だが、日本に気を遣った色になった)
(Onishi Yasushi)


了。