わが心のル・マン28年史 その34 2000年第2話。「テレビ朝日 チームドラゴン予選・決勝」


「テレビ朝日チームドラゴン。パノスLMP-1ロードスターSとチーム姫」


 2000年のル・マン24時間レースは史上はじめて、日本の民放テレビ局、テレビ朝日が、
自らチームを作り、レースに出るという前代未聞のチャレンジとなった。
 と言いつつ、私もチームを作ったコア・メンバーの一人である。
 責任は感じていたし、さまざまなプレッシャーがあった。
また、前年暮れに父親が急病で入院するという事情もあり、
忙しいわ、やることが多いわ、多少若さがあったから乗り切ることができたが、、
気力も体力も、限界まで攻めていた。

「写真集 夢現想のプロローグ。できれば拡大してお読みください」


 私の役割はメディア・コーディネーター。
ル・マンウイークが動き出すと、郷総監督、高橋国光監督、関谷正徳監督、
ドライバーの6人に取材しつつ、広報原稿を書き、リリースを発行して、現場で配り、
東京へも送り、ル・マンのテレビ制作者とも連携を取りつつ、リエゾンというか
「うまくやっていく」係である。
それと並行して「レース・ドキュメンタリー写真集」に詩を書くという作業もあった。
 チームのため、スポンサーを探すというような仕事も、なくはないが、
郷さん自身が博報堂OBであり、日清食品がついてくれたので、ひとまず、格好はついた。
(日清さんのスポンサー料は、それほど多くはなかった)

「メンテナンスはデビッド・プライス・レーシング」


 今、非常に自戒を込めて言うが、チームは真剣に戦って立派だった。一方で、
テレビ朝日には「憧れのル・マンにようやく来た人」も多く、多少浮かれ気味だったかもしれない。
 少なくともチーム、ドライバーを含めると80人近くがル・マンで寝食を共にした。
 私の出発は2000年6月12日月曜日。その日のうちにホテル4階の屋根裏部屋に入った。

「高橋国光が監督する22号車は土屋圭市のドライブで順調に仕上がっていく」


 翌13日火曜日・車検場。
 高橋国光さんと話し込む「つくづく感じるね。ついに我々が考えてきたル・マンが実現しつつある。
メーカーの垣根を越えて、人気ドライバーがチームを組んでル・マンを走る。注目されてますよね」
 
 予選初日。22号車は土屋圭市がリーダーとなり引っ張る。23号車は鈴木利男がリーダーだ。
 22号車の監督が高橋国光で、ドライバーは土屋、飯田章、近藤真彦。
 23号車の監督が関谷正徳で、ドライバーが鈴木、影山正彦、影山正美である。

「23号車は鈴木利男がじっくり行く。監督は関谷正徳さん」


 このバランスは、チーム国光の匂いもすれば、トムスやニスモの匂いもする。
 不思議な感覚だが、とてもいい人選になった。
 2日間の予選走行。23号車はエンジントラブルなども出たが12位。
 22号車は非常に順調で、早めに仕事も終えてグリッドは13番手につけた。

 私は淡々と書いているが、この2000年のチャレンジは、いいとこどりすれば、
これほど面白い挑戦はないかった。でも悪い面はレース屋じゃないテレビが、
「テレビ中継ファースト」という目標があって、ことを進めたことかもしれない。

「私の文章で書いたプレス・リリース。いつもは取材する側だが発信する側になった」


 真っ青な空の下、17日の決勝はスタートした。
 5周目にキャデラックが炎上して、セーフティーカーが入り、鈴木利男が給油。
 22号車は給油に入ったが、近藤真彦に交代。9ラップで交代した土屋は少々首をかしげた。

 夕方になると、22号車にトラブルが発生した。影山正彦がドライブする時に
メーターパネルの情報がまったく出なくなり、回転数すらわからない。

 夜7時に正美が乗ったら、パネルが直った。
 午後8時の順位。22は13位。23が14位。

 それからも22号車は、ややサスペンションに違和感があるものの順調。
 23号車は徹底的に無入しない走りを心掛け、夜に入っていく。
 
 22号車は夜に入って3スティント走行になり、飯田章が3スティントへ。ここでバースト。
 3スティントはここでやめて2スティントに戻す。
 一方の関谷監督は2スティント堅持のかまえ。
 午前4時。23号車影山兄の時にタイヤバースト。

 朝5時半、23号車影山弟ベストラップを刻む。
 22号車はギアボックスが音を上げたため交換した。
 23号車もギアが勝手にジャンプするようになったが、関谷監督は交換しないで乗り切る構え。
 午前9時。23号車6位。22号車14位。

 18日の昼になった。
 近藤真彦がピットのスピード違反でペナルティボックスに入った。
 23号車はとうとうギアボックス交換なしで「1ラップタイムを10秒落とす作戦」(深夜から)
 関谷監督は「だましだましじゃないんだよ。ここから4時間レース」と強気だ。

「カップヌードルがスポンサーになり、ヌードルはプレスルームでも配り大好評」


 23号車はそこから5位にポジションを上げた。
 22号車はマッチから章に代わった。
 
 最終的に23号車は6位となり、22号車は8位まで戻してきた。

 トップはアウディR8 ビエラ、クリステンセン、ピロ組。

 テレビ朝日チームドラゴンは2台とも完走。表彰台ではなかったが立派な結果を残した。
 郷和道はさんざんお金を使わされたが、自身のル・マン挑戦ではじめての完走となった。

「ゴール・シーン。夢現想より。私も写っている」


 いろいろな角度で見よう。
 郷さんにとっては、この完走は、クルマをもたせるという面では非常に参考になったという。
 のちの2004年総合優勝に結びつく、よい経験になった。

 テレビ朝日としては、中継の「華」が出来、テレビ局として初めてチームを作って乗り込み、
一応の成功を収めた。ただ残念ではあるが、今も語られる伝説のイベントにはならなかった。
(私は、こういう話こそ語り継ぐべきだと思う。今のテレビ局は目先の利益に追われ少し前の過去は
忘れ去ってしまっている)

 ドライバーの皆さんには本当に苦労させてしまった。
 我慢のレースを強いた。
 それはコアメンバーとして申し訳なく思っている。

 ではこのプロジェクトは失敗で、やるべきじゃなかったことなのか?
というと、そうではない。
 2000年のル・マンは、誰も考えなかったことに挑戦し、
多少悪乗りしたけれど、少しは歴史に、何かを残すことができたのではないか?

 私は5000部限定だが、「夢現想」という写真集に思いのたけを書くことができた。
 今、思い返すとまさしく「ゆめ、まぼろしのごとき」プロジェクトだった。

「私はプレスルームでリリースを書いたりピットでコメント取ったり
帰国したら熱中症だった」


 少年のように一途に 白昼の夢追い求め
 やがてル・マンの現実となり24時間戦い抜いた
 時は過ぎ今は静かな思い出
 熱き友情に感謝。