チーム郷の郷和道のストーリーについて、僕は
特に丁寧に慎重に記していきたいと思っている。
もちろん、他のストーリーも丁寧さを心掛けるが、
個人でル・マンに挑むということの大変さや、
郷さんという人物の、心のありようや、息遣いを
できるだけ生かすよう、僕も息を整えながら書くということだ。
1997年マクラーレンF1GTRではじめてル・マンに出た郷和道は、
(1997年夏の)鈴鹿1000キロに自前のクルマと、自前のチームで戦うことにした。
パラボリカというイギリスのチームには、もううんざりした。
だから日本の「チーム・ル・マン」にメンテナンスを頼み、
自分のマクラーレンF1GTRを新たに買った。
F1GTR-19Rという個体であった。 カラーリングはラークカラー。
ドライバーは、関谷正徳、土屋圭市、中谷明彦であった。
このレースはル・マン並みに世界のワークスチームが来日。
郷たちは9番手のグリッド。決勝も日本人チーム最高位の9位。
こうして1997年を終えたのであった。

(これはもちろん模型です)
1998年になると、郷和道はル・マン24時間を本格的に挑んでいくため、
1年間、しっかり準備しようと決心し、6月のル・マンはカーマガジンの
メディアパスを取得して、調査・研究・折衝に出かけた。
TOYOTA NISSAN メルセデス BMW ポルシェがしのぎを削るレースでは
ポルシェGT1が優勝した一方で、屋根なしのBMWのV12の速さに郷は注目した。
郷は頭の中で資金の問題も考えた。
世界のワークスが一回のル・マンに投入する資金は、
開発費も含めると数十億円に達する。
潤沢な資金と、豪華な顔ぶれによるショーといっても良かった。
しかし自分は個人だ。ワークスのように潤沢な資金をつぎ込めない。
スポンサーを期待しても、決して多くは集まらないだろう。
ほとんど自分で金を調達するしかない。そんな心境だった。
1998年のル・マンで郷は様々な人と会った。
まず1996年に自分のチームで走ったジョン・ニールセンと再会。
彼が、イギリスのレーシングガレージである「デビッド・プライス・レーシング」
を紹介してくれた。
「今度、(ル・マンを)やる時はよろしく」という挨拶を交わした。
ほかにもBMWの関係者にも会った。
郷は「BMWエンジンを積んだマクラーレンF1GTRで、
日本のチャンピオンになったチーム・オーナー」なのである。
この信用は並大抵ではない。
この年BMWV12LMはベアリングの容量不足という駆動系トラブルで早々とリタイヤしたが、
予選では6位と13位。まあまあ速かった。
郷はその時予選12位だったパノスにも注目。パノスは決勝でも7位完走。
あなどれないクルマだった。
帰国した郷は、その後思い切ってドイツに飛び、BMWを訪問。
「来年(1999)のル・マンのためにBMWV12LMを売ってくれないか?」
そう掛け合った。
BMWの返事はこうだった。
「1998モデルだったら売ります。99モデルへはアップデートが可能です。
1999の新車は、デリバリーがテストデー(予備予選)の前日になります」
とてもまわりくどい言い方だけど、要するに1999モデルを売るのは嫌だということ。
優勝できるのはワークスだけ。プライベートチームに売って
ブランドイメージを落としたくない。そういう態度があからさまだった。
と同時に、来年のレギュレーションが「屋根なしに有利になりそう」なことから、
BMWは1999モデルを、まったく新しく作ることにしていた。
(レギュレーションの変化と新車制作はその後明らかになった)
結局、郷はBMW V12LMの1998モデルを若干アップデートしたマシンを
買うことにした。
マシンを造り上げたのは(諸々ややこしいことは、ざっくり省きます)
先に紹介したイギリスのデビッド・プライス・レーシングということになった。
ここでもう一人BMW V12LMを買った人がいる。
ドイツの銀行家でレーシングドライバーのトーマス・ブシュ―だ。
ブシューはマクラーレンに乗ってBPRシリーズのチャンピオンになった男で、
ニールセンとはチームメートだった。
ブシューのマシンもデビッド・プライスでメンテナンスされ99年に出場した。
郷は97年、自分がチームをコントロールできな買ったことを反省し、
まずエンジニアをこちらから出そう。
宮坂宏を選び、契約した。
ドライバーの選定は悩んだ結果、
元インディーカードライバーのヒロ松下。
もう一度きちんと仕事がしたかった中谷明彦。
そして本籍地チーム郷のドライバーとして、、加藤寛規を選んだ。
さて1998年型と99年型の中間のようなマシン(笑)はなかなか来なかった。
来たのは4月で、大急ぎでポールリカールでシェイクダウンテストをした。
5月2日にはル・マンの予備予選。
タイムは3分42秒831だったが、トップタイムのブランドルから11秒も離された。
郷は「時代が変わったのか?大丈夫か?」と思うほどだった。
それほど、TOYOTAとメルセデスの競争は熾烈で、まるで東西の横綱相撲だ。
ひるがえってチーム郷は、前頭であり、木の葉の船か?

フロントの形状は、99モデルとほぼ同じ」
チーム郷のBMW V12LMは98からやや進化した、小さなキドニー・グリルを持ち、
実際にグリルになっていた。(98は絵が描いてあっただけ)
空気の流れも99に近い。
ただワークスBMW99は一人用のとんがったロールバーである。
郷たちのは平べったい幅いっぱいのロールバーだった。

予選は、初日は慣熟走行にあてて、翌日アタック。
予備予選から予選へと、ドライバーも宮坂も慣れてきて、
ダウンフォース量を変えたりしてタイムも上がった。
25番手から決勝に臨むことになった。
事件も少々あった。
予選初日、駐車場に止めておいたミニバンの窓が割られ、
ドライバーのための点滴液などの医療用品が盗まれた。
まったくル・マンは次々とトラブルが起きる。でも前進前進(笑)
レースがスタートした。おっと、いきなり、1コーナーでスピンだ。
誰かと思ったら加藤が、うしろのパノス(オコネル)に押されて、スピン。
ほとんどビリに落ちた。
一旦帰って、リアのボディーワークを取り換え再びコースイン。
加藤は焦らず、しっかりと2スティントをこなした。
17時49分。27ラップを終えた加藤は、ここで中谷に交代した。
18時の段階で順位は、17位にいた。
19時29分。中谷の2スティントが終わり、松下に交代した。
21時03分、松下の2スティントが終わって振出しに戻り、加藤に交代した。
この時点の順位は、13位。
22時50分、加藤から中谷に交代。アンダートレーを交換。
23時の順位は12位。
24時19分、中谷は3スティント目に行く。

根性で直した。最後はクラッチ・トラブルだった」
午前1時10分中谷が帰った。ここから松下へ。
午前1時55分、松下ピットイン。原因不明のパワーダウンがあり、
前にECUを変えたが、改善しないので、インテークを外したら、
小石が入っていて、空気を邪魔していた。、
2時03分、松下3スティント目に入っていく。
ところがここでパワーステアリングが故障した。
このマシンはパワーステアリングがあることを前提に設計されており、
ないと重たくて危険だ。
デビッドプライスには予備はまったくなかった。
BMW本体にもスペアは一つしかなかった。
宮坂はデビッドプライスレーシングのメカニックたちと
4時間をかけて、手で、パワステを直した。
朝6時22分、チーム郷は再び走り始めた。
加藤はここから4スティント行った。
そして中谷に代わった。
中谷も3スティント走り、いよいよ松下に交代という時、
マシンがコース上でストップした。
クラッチが壊れたのであった。
ゴールまであと4時間。
チーム郷の2回目のチャレンジは潰えた。
「99年は夜中に終わったも同然でしたが、そんなに悪い思い出はありません。
今から振り返れば、幼稚でしたが、プライベーター型の、機械に頼らない、
データに頼らない、もたせるレースという意味ではあれでよかったんです」
そう語っていた郷だが、2000年は前代未聞のプロジェクトを
引き受けることになっていく。
私も巻き込まれるというか、自ら身を投じるというか、混沌が始まっていった。
さて、寺田陽次郎21回目のル・マン。
カーナンバー24オート・エクゼについてもここで記しておこう。
寺田陽次郎、フレオン、ドノバンの3人によるオートエクゼLMP99は
予選24位からスタート。
ところがスタート直後16時30分早くもカウルを開けている。
クラッチトラブルが発生していた。
コース上では6号車メルセデスが寺田に追突しかかることもあった。
午前2時までは下位で生き残ってはいたが、最後はエンジンブロー。
3時にはリタイヤの仲間になってしまった。
寺田にとっては6年ぶりのリタイヤだった。
さあ20世紀最後。2000年のル・マン。カミング・スーン!
この項、終了。