1997年4月24日IMPULは記者会見を行い、星野一義の
フォーミュラレース引退を発表した。
その理由は、こう書いてあった。
星野は1974年のFJ,F2000以来23年間フォーミュラに
乗ってきた。1976年77年はF1にも乗った。でも
パーマネントF1ドライバーにはなれなかった。
しかし今年、ル・マンのためにポールリカールでテストがあり、
昔なじみのパトレーゼやブランドルと走るうちに、
ル・マンこそ自分にとってのグランプリ。自分にとっての
F1だと思うに至った。
だから日本のフォーミュラは後身に道を譲って、自分は
ル・マンに集中するというものだった。
当時フォーミュラニッポンは2年目のシーズンとなり、
19号車は黒澤琢弥が引き継ぎ、20号車は影山正彦が引き継いだ。
そうしてやってきたル・マン。
6月10日ジャコバン広場での車検。ニッサンは午後2時半からの車検だから、
バンのなかで星野さんと話す。
「もうテンポの長さにうんざりだね。こっちはあれだねトイレが汚い」
と、毎年来ているのに、初めて来たような話をする。
この時、星野一義は49歳。7月で50歳になるところだ。

TAKAGIRI TADASHI
車検が終了して、ニッサンR390GT1を囲んでチーム全員の
写真撮影が始まった。
赤と黒に塗り分けられた、クーペ型のGTカー。
GTとは名ばかりであって、中身はプロトタイプに近い。
TWR(トム・ウオーキンショー・レーシング)と組んで日産が開発した
という説明だが、TWRに保管されていたジャガー・XJR-15をベースに、
エンジンはグループCで使った3.5リッターV8ツインターボのVRH35Zを
もとに開発したVRH35Lというもの。

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じつは1996年GTRではもはや勝てないと判断し、
7月にはプロジェクトがスタート。
TWRとニッサンは、3月にこのR390GT1を完成させた。
まあ現場でもいろいろ言う人はいた。でもニッサンはニッサン。
僕は冗談で
「パワード・バイ・ニッサン。ペイド(金払ったぞ)・バイ・ニッサン」
と言っていた。

何といってもマーチン・ブランドルが予備予選でR390GT1に乗り込み、
3分43秒152というプロトタイプを上回る予備予選ポールタイムを出し、
頂点を狙っていく気分は、ニッサンに充満していた。
ただリアのトランクが解放式で、ギアボックスの冷却ダクトの構造(網)が
レギュレーションに反するとして、密閉型に直した。
このことが、決勝でのトラブルにつながっていく。
細かい話だが、マウロ・マルティニも乗る予定だったが、マウンテンバイクで
クルマと接触し怪我したため、IMSAチャンピオンのウエイン・テイラーが乗る。
この21号車はブランドル、テイラー、ヨルグ・ミュラー組は
R390の設計者でもあるトニー・サウスゲートが指揮・監督をする。
もう一台バン・デ・ポール、パトレーゼ、鈴木亜久里組の22号車は
スティーブ・ファレルが面倒を見る。
23号車 星野、コマス、影山組はNISMOがオペレーションを行う。
総監督は柿元邦彦である。柿元にはトムの右腕ロジャー・シールマンが付く。
ウオーキンショーはベネトンF1もやっていて、その週はカナダグランプリだったため、
となりの飛行場からカナダへ行ったりル・マンに戻ったりだった。
予選の模様は、前回も書いたので、結果だけを知らせておくと
22号車(鈴木亜久里やパトレーゼ組)が3番手スタート。
21号車(ブランドル、テイラー組)が7番手スタート。
23号車(星野、影山、組)が14番手スタートだった。

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木曜日の予選日の昼、星野一義はゴルフに出かけた。
「ホテルでじっとしているよりは気分がいい。背負っているもの
が違うから(重いから)・・・」と発言。
金曜日は、星野一義、ニュースステーションに出演。
私はアンジェまで遠足。短パンで言ったら凍えるほど寒かった。
さあ土曜日が来た。肌寒い。
11時半、ぽつぽつと雨が来た。
でも、天気は持った。全車スリックタイヤ。
21号車R390GT1が出走前にギアボックス交換。
16時レースがスタートすると25号車ポルシェがトップに立ち、
バン・デ・ポールの22号車ニッサンR390GT1が2位、
3位が去年の覇者7号車ヨーストポルシェ。激しい先陣争いとなった。
しかしスタートから2時間40分、21号車がピットインすると、
リアエンドにべったりとオイルが滲んでいた。
そして、その直後、22号車もピットに入り、
パトレーゼが乗ったままリアカウルが開けられた。
(まったく何やっているんだよ~)の心境であった。
直し直し行ったけれど、
22号車は夜1時18分トラブルによりリタイヤ。
21号車ミュラーがコースアウトし4時21分リタイヤ届を出した。
残ったのは星野、影山、コマスの23号車だけである。
朝5時ピットインすると、前もうしろもカウルを開けアライメント取り直し。
朝の走行を終えて、星野と朝食をとりながら話す。
「トム・ウオーキンだか何だか知らないが、日本人なめてる」
もうクルマがないから、メカニックたちがのんびりご飯食べているのが
気に入らないのだ。
結局23号車はそこからも我慢、我慢で走り、総合12位でレースを終えた。
今回NISSAN UK(英国)から大挙して工場で働く人たちがやってきていた。
また日本からも多くの応援団が来て、
「ニッサンチャチャチャ」と言って旗を振って応援していた。
だがピットの中では、いつものように、誰が総大将なのかわからない
采配が行われ、油温が上がりオイルが噴き出すと
慌てるばかりの状況だった。

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これでは勝てない。
そう思い知らされたル・マンであった。
今回イギリスニッサンからプリメーラがドライバーに貸与されていたが、
レース後、ただちに撤収してしまったようで、
星野一義と影山正彦はホテルに帰る足を奪われてしまった。
そんなことがあるわけないのに、僕たちが、お二人をお乗せして、
ラフレッシュまでお送りしたと記憶している。
翌1998年、星野一義は最後のル・マンになった。
ここでようやく思い出の3位が得られる。
そして1998年はTOYOTA、メルセデスも現れ
メーカーの大戦争になっていくのである。
ル・マンは本当に非情だ。
まさしく
魂の試される場所である。
なんの偶然だろう?
ニッサンと星野一義のエッセイが、
わが心のル・マン28年史「その23」になった。
この項、了。