私は、とうとう、この人のことを書く時を迎えた。
1997年ル・マン24時間に「ラーク・マクラーレンF1-GTR」
で初出場し、そこから苦節7年、ル・マンを制した唯一の日本人オーナー、
郷和道の話を書く時がやってきた。

TAKAGIRI TADASHI
彼は巨人(偉大な人物)であり、素晴らしい才能を持った人。
非常に頭が良く、繊細な神経を持った、ジェントルマンである。
語りつつ思うことは、この人の話もまた「大河小説」にならざるを得ない、
それほど凄い人なのである。
人間は、幼い時の大きな思い出がきっかけとなり、将来が決まることがある。
チーム郷の郷和道にとっては1966年の富士スピードウェイでの第3回日本グランプリで
プリンスR380が優勝(ドライバーは砂子義一)したこと。が一つ。
もう一つは同じ小学6年生の夏休みに軽井沢で買ったカーグラフィック。
この表紙がル・マン24時間レースであり、フェラーリや、フォードが24時間戦う。
世の中にこんなすごいレースがあるんだ。そう思った。
この二つのことが彼の人生を決定づけた。
普通の人なら、そのようなレースのことはスルーして終わるが、彼は違う。
彼の家は赤坂氷川町にあり、広さは550坪。
父は通産省のエリートで後に事業を始める。
母はブリヂストン創業者の三女である。
その祖父は同じ時期、プリンス自動車工業の社長でもあり、
走っていたR380は「おじいちゃんのレースカー」なのである。
小学校6年生の彼は非常に天才的な頭脳で、ロケットの設計とか制御。
無人の模型船で太平洋を渡る制御とかを考えていた。
しかし、中学でひどいいじめにあう。
体が大きい、大金持ちのせがれ、赤坂に住んで、
キャデラックのオープンカーやベンツがある。
首相の親戚らしい。そんなことで学校では徹底的にいじめられ不登校に。
高校はアメリカのプレッピースクールへ入り、
ロックに目覚め、4年後帰国。
そこでなんと1976年、1977年の富士のF1グランプリ事務局で働くのであった。
まったく紆余曲折。大学へも行ったが、
なんと鈴鹿サーキットでもアルバイトすることになる。
やがてブリヂストンに入社するが、辞めて大学に入り直し、広告代理店に転職。
そうこうするうちにお父さんが亡くなり事務所を受け継ぎ、
1996年全日本GT選手権に、ラークマクラーレンF1-GTRを2台出場させ、
ドライバーズチャンピオンとチームチャンピオンを獲得するのである。
どうです、これだけでも、もう面白いでしょ(笑)
まあご本人は必死に生きてこられたと思いますが。
なぜ全日本GT選手権に出たかというと、広告の会社を興し、
解散して、フリーになり、次のビジネスはよりクルマに関連したもの
と模索中にマクラーレンF1ーGTRというクルマを知ることになった。
また、郷自身は1986年からサーキットで
ゴルフなどを走らせているアマチュアレーサー。
荒聖治とはそのレースで出会った。
で、マクラーレンF1-GTRを横浜のディーラーへ見に行った時、
マクラーレンのマーケティングをやっていた安川実と会い、
まずは自分用の車両を買うため、イギリスまで行き、
マクラーレンのロン・デニスと会う。
郷は客であり、デニスは売る側である。そして1台購入した。
そこからマクラーレンとの関係が深くなり、1996年に日本のレースに、
マクラーレンF1-GTR を走らせる計画がマクラーレン側に生じて、
郷を、マネージングダイレクターにして、計画が進められた。
この時、郷はまだ受け身であり、自ら欲して、その渦の中に入ったのではなかった。
まして将来、ル・マンに自分がチームを持って出場することなど想像もつかなかった。

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しかし運命のいたずらとでもいおうか、
郷は1996年全日本GT選手権に2台のラーク・マクラーレンF1-GTRを走らせ、
ドライバーズとチームのチャンピオンに輝く。
それをやっていく際の、ややこしい契約関係の話は省略する。
詳しくは私の著書「勝利のルール ル・マンを制した男 郷和道」
を読んでいただきたい。
1996年の国内でのシーズンが終わり、郷は次にやるべきことを模索していた。
ラークとの契約はまだ残っていたが、去年と同じことをやっても進歩がない。
日本のGTはマクラーレンF1-GTRを黒船か魔女扱いで、阻害することばかり考える。
であるなら、もはや同じくらいの予算で海外へ雄飛するしかなかった。
元・妻も郷自身が、国内の戦果に満足せず、晴れ晴れした顔でないことに気がつき、
「思う存分、海外でやれば」という助言をした。
そして、ほぼ同時並行して1997年のル・マンに対して、
BMWワークス(シュニッツァー)が、マクラーレンF1-GTRを2台出し、
ガルフ・マクラーレンやWESTマクラーレンが出てきて、
郷たちは、パラボリカというイギリスのチームと合体する形で、ル・マンに参戦することになった。
そのあたりも私の小説にありますので、先を急ぎましょう。
1997年ル・マンに現れたマクラーレンF1-GTRは、それまでのマシンとは違った。
ポルシェ911GT1に勝つため、フロント、リアともに長くなったF1-GTRであり、
どこを直したというよりは、ほぼ新設計のクルマであり、一から作り替えられていた。
ダウンフォースが増して、より速くなった。
特にBMWワークスはABSも装備し、攻められるマシンだった。

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郷はまだ、ここでチーム郷を名乗ってはいない。
チーム・ラーク・マクラーレンでエントリー。
クルマはパラボリカから借りる形だが、
大方の費用はほとんど郷持ちと言っていい。
郷は、関谷正徳に乗ってほしかった。
が関谷はガルフ・マクラーレンに乗ることが決まっていた。
その関谷と舘信秀が土屋圭市を推薦した。
もう一人は理論派ドライバーの中谷明彦に決めた。
三人目はマクラーレンが推薦するイギリス人ゲイリー・アイルズ。
ポール・リカールでのテストに続いて、5月3日のル・マン予備予選に臨んだ。
ここでイギリスのパラボリカの実態がわかってきた。
アイルズというドライバーは、イギリスのお金持ちたちがアマチュアのレースを
するときのコーチで、日本のレーシングドライバーほどの腕を持っていなかった。

フランスの若者が死亡。ル・マンは一筋縄ではいかない)
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走り始めの、タイヤも温まってない、空気圧も安定しないのに車高調整を始めるなど、
技術的にも変だったが、郷が注意しても、イギリス人たちは無視して、アイルズを走らせ、
このままでは予備予選落ちであった。
翌日最後に土屋を乗せたら、ようやく、GT1クラスの11位。全体のビリで
予備予選を通過できたのである。
この圭市の一発がなかったら、郷たちのル・マン初挑戦はまったくなかったと言ってよい。
それから1か月後の6月8日、郷は土屋圭市、中谷明彦とともに再びル・マンの地を踏んだ。
また元F1メカニックの中矢龍二に技術的コミュニケーションをお願いした。
6月11日予選初日ラーク・マクラ―レンは4分が切れない。
土屋が乗って3分50秒578。17番手。
翌12日。郷は土屋にタイムアタックを命じた。
土屋圭市は渾身のアタック。タイムは3分47秒108。
総合で10番手。マクラーレンF1-GTRとしては、
BMWワークスのJJ・レートに次ぐタイムであった。
土屋圭市は本当に速い男になった。個人別でル・マントップ10だ。
もう動物的、野性的感性で、夜のル・マンを走っていく。野獣か(笑)
アイルズのタイムは圭市の10秒落ちだった。

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6月14日。郷和道にとって初めてのル・マン決勝が始ろうとしていた。
観客は15万人。華やかなセレモニーは続き、午後3時54分、48台のマシンが
フォーメーションラップに入った。
スターティングドライバーは土屋圭市。
スタートが切られると、土屋はベテランらしく落ち着いて、
抜きに来た車には抜かせて、1周目は14位で戻ってきた。
あのNSXの時の、何が何でも抜いていくドリキンじゃなく、
焦ってポジションをなくすのではなく、チャンスを待つドリキンになった。
土屋は12周してピットイン。給油。データを取りながらじっくり行く構え。
土屋20周して12位。
ほかのクルマがピットインしたこともあり、28周目には5位に上がった。
次いで乗ったアイルズは土屋がセッティングしたマシンで満足なドライブをした。
55周目、7番手で中谷明彦に交代した。
午後7時47分。中谷がコースイン。コンスタントに周回を重ねて、
ラーク・マクラーレンF1ーGTRは順調のように思われた。
しかし彼の2スティント目に大きな罠が待っていた。
69周目。午後8時35分だった。
中谷選手はテルトル・ルージュ手前でスピンして、内側にガードレールにヒットして止まった。
テレビの画面にはオフィシャルたちの手を借りて、コースに戻ろうとする
中谷が映った。
「中谷さん。どうしますか? ピットに入りますか?」
ピットに立つコミュニケーションマネージャーの中矢龍二が無線で呼びかけた。
コース上の中谷は落ち着いてこう答えてきた。
「ガードレールには当たっていません。こすっただけです。クルマも
バイブレーション出ていません」
中谷はそう答えてきてレース続行の構えだ。
中矢龍二と英国人メカニックたちは、メインストレートに戻ってきた
ラークマクラーレンをじっと目で追った。
外からの目視で異常がないか見るのである。見た目は平気だった。
作戦的には、一度ピットに呼び寄せて、しっかりクルマを点検し、
ドライバーを落ち着かせるべきだったかもしれない。
でも、それが出来ないまま、続投させてしまった。
82周目、21時33分。中谷は、またもテルトル・ルージュ手前でスピンした。
しかも、激しくガードレールにヒットし、カウルがバラバラになって飛んでいく。
スタートから5時間半。郷和道初のル・マンは、こうして終わった。
もはや何も言うべき言葉はなかった。
何を言っても言葉はむなしく響くだけだった。
郷は一人で、ケータリングのテントに入りミネラルウオーターを一杯飲んだ。
水を出してくれた初老の英国人が声をかけてきた。
「あなたは、初めてのル・マンなのに残念だったね。私がル・マンに来た
最初の年はフォードがGT40で出た時だったよ。その時からこのケータリング
をしているんだ。まあがっかりだろうけれど、またおいで」
この言葉で郷は救われた。自分が小学生で、カーグラで見たあの頃から
おじさんは働いているんだ。
あこがれのル・マンは残酷に郷をあしらった。
「1997年のル・マンは人生の中でも一番悔しかった出来事」
当時郷はそう語っていた。
土屋圭市はル・マンの街に呑みに出た。やけ酒を飲んで騒いだ。
帰りの空港で出会った時、郷たちには疲労の色が濃く、
かける言葉すらなかった。
ここから再び、三度、壮絶なチャレンジが始まっていく。

この項。了。