わが心のル・マン28年史 その1 1987年


 ル・マンは一種の狂気であり、めまいする場所。情熱のるつぼであり、
冷静な戦争であり、喜びの場所であり、悲しみの場所である。

 ル・マンはクルマを走らせる人に、十分な財力と的確な技術を要求する。
 ここで闘う人には、十分な体力と、死をも恐れない胆力を要求する。


~1987年は、大きな歴史の転換点~

 ル・マンに行きたい、ル・マンに行こうと思い始めたのは、1980年から、FM東京で「アドバン・サウンド・コックピット」というレースと音楽の番組をやり始めてからであった。
このラジオ番組で、私は全日本F2レースや、世界でやっているF1のニュースを紹介していたが、グループCカーによる国内の耐久レース(JSPC)も盛んになり、鈴鹿や富士スピードウエイで取材を続けた。
   
その耐久レースの、インターナショナルな頂点がWSCのル・マン24時間レースであり、特に親しい高橋国光さんが1986年にケンウッドポルシェで出場してからは「絶対に行こう」と決意し、チャンスを窺っていた。

 その一方で私は、テレビの全日本F3000レースの中継にも携わり、テレビ朝日で「スポーツUSA」や「ビッグスポーツ」の構成を担当し、徐々にスポーツとレースに精通する作家と見られるようになってきていた。
それが、果実となって実るのが、1987年のフジテレビジョンによるF1中継開始と、テレビ朝日によるル・マン24時間生放送開始であった。
 まさに時節到来であるが、最初からフジテレビやテレ朝のお世話になったわけではない。

 アドバン・サウンド・コックピットを提供していた横浜ゴムの宣伝課長から「お金を援助するからモナコ・グランプリくらい見て来い」とありがたい申し出があり、では、ついでにル・マンへも行って、ついでに1976年以来会っていないスイスの親友を11年ぶりに訪ねて、もうひとつ、電通に頼まれたロンドンのコンサートを見てと、公費と自費を合わせ、およそ20日間の旅を組み、まずはモナコに向かったのである。



 1987年モナコ・グランプリ。


時は1987年である。中嶋悟がF1にデビューして初めてのモナコ。
私は1コーナー、サン・デ・ボテのスタンドに立ち、スタート直後、中嶋が目の前でスピンし、エスケープゾーンに入るのを見た。中嶋いきなりビリ。
セナはトップに立ち、そのままモナコ初優勝した。

 このモナコでは、東京から取材パスを申し込んでいたのだけれど、受付に行くと「ラジオ取材はUS7000ドル払いなさい」と言われ、あきらめてスタンドで見る以外なかった。でも1コーナーのスタンドでも、私はノートにラップチャート(周回数と各車の順位)を書いていた。

 私がヨーロッパをぐるりと周る航空チケットは、JTB系のKSインターナショナル社が作ってくれた。
私自身は「AUTO SPORTモナコ・グランプリ観戦ツアー」と「ル・マン24時間観戦ツアー」の二つに身を任せる形になっており、しごく楽であった。
 モナコからパリに戻るとモナコ組は日本に帰った。私だけチューリッヒに飛びスイス人の友人と4~5日遊び、今度はロンドンに移動してコンサートを見て、またパリに飛んで、一人でオルレアンに泊まり、電車に乗って、ル・マン駅で降りた。

私は1975年英国留学経験があり、欧州の移動は慣れていた。このコンサートはチャールズ皇太子と故ダイアナ妃主催のプリンセス・トラスト・コンサートで、出演はポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、リンゴ・スター、エリック・クラプトンなど。私は電通の代理人として出席したのであった。


~初めてのル・マン~

 ル・マン駅で降りると駅から300メートルほどの路地裏にあるホテル・シャンテクレールに歩いた。
 ここはテレビ朝日中継班の宿であり、私の入場パスが置いてある。
 私はまだ中継班の正式メンバーではなかった。
 たまたまF3000の番組を構成していたので、Kプロデューサーに頼んで、ル・マンのパスだけ取ってもらって、それで入場するという手はずなのである。

 ホテルのマダムからパスを受け取り、タクシーに乗り「ACO(アーセーオー)」というと「ダコー(了解)」と言って走り出す。(ACOは西部自動車倶楽部の略)
 タクシーを降りて、一歩中に入ると、日本のレイトンハウスの社員T君が「おはよう!」と声をかけてきた。私はずっこけた。ル・マンでいきなりおはようもないもんだ、と。

 少し歩くと、グランドスタンドのビルがあり、その真裏に、プレハブの小屋が建っている。
これがテレビ朝日の中継班の詰め所であり、取材本部であり、生活の本拠(ホテルは別)になっていた。

 解説は私の友人でもあるオートスポーツ編集長の熊谷睦さん。
 私は、テレビ朝日のパスを持ってはいるものの、何の義務も責任も無いフーテンの寅さん的存在だから、もう嬉しくて、嬉しくて、あちこち見て廻った。

 (とにかく自由に見てまわれて、こんな幸せはなかった)


 まず、当時のメディアセンターであるが、最終コーナー寄りに、大きなテントがあり、中に入ると、ビデオ映写システムでスクリーンにTV映像が投影され、多くのジャーナリストはそれを見ている。
 映像には56号車スピンとか情報が流れるのだが、同じ情報が紙でも壁新聞のように貼られていく。


~ユーノディエールはまだ1本のストレートだった~

 それらは決勝のことであって、その前の、水曜日と木曜日の予選日には、テレビ朝日中継班にとって、かわるがわる冒険の旅に出る、生まれて初めての貴重な体験ができる夜が訪れる。

 それは、日が落ちた午後9時半過ぎに、6キロの直線であるユーノディエール・ストレートのちょうど真ん中あたりに立ち、時速300キロ以上で走り抜けるマシンを、目の前で見るという「ナイトツアー」が挙行されるのである。

 「ナイトツアー」だから誰でも参加できると勘違いしないでほしい。
 そのネーミングは「しゃれ」であって、一応、ジャーナリストのパスを持ち、テレ朝が雇ったドライバーが運転するマイクロバス(ミニバンと言う言葉はない)に乗り、ル・マンの真ん中を突っ切る内部道路を通って行かなければ、たどりつくことができない、大変な遠足なのである。

 真っ暗なストレートの脇。足もとは、何だか泥濘(ぬかるんで)いる。
 マーシャルがいるけれど、ダメとは言わない。逆に、もっと近づいて良いよというそぶりだ。
 左手の方から、マシンが近づいてくる。
 そのサウンドが3キロ先から「プオーーン」と聞こえはじめ次第に大きくなり、目の前を通る時「バサッ」という空気音がして、そこからは3キロ先のミュルサンヌまで「ポワーワワン、ポー」という排気音が続くのである。

 時は1987年である。ユーノディエールのストレートは6キロの真っ直ぐ。
 ここにシケインができるのは1990年のこと。
 それまでは、我々は何度もここに通った。
 もちろんシケインができた後もこのポイントには毎年通っているが、やはり真っ直ぐなストレートは迫力が違う。凄く危険なにおいがした。

~日本人ドライバーは13人~

 この年、日本人ドライバーは全部で13人がエントリーした。
23号車日産R87Eは星野一義、高橋健二、松本恵二。32号車日産R87Eは、長谷見昌弘、和田孝夫、鈴木亜久里。37号車デンソートヨタ87Cには関谷正徳、星野薫、(T・ニーデル)。マツダ757には片山義美、寺田陽次朗、従野孝司。そして10号車ポルシェに高橋国光。61号車クーロスメルセデスに岡田秀樹が乗った。他に36号車ミノルタトヨタにはジェフ・リース、アラン・ジョーンズ、エイエ・エルジュの外国人3人組。202号車マツダ757にはケネディ、ギャルビン、デュードンネが乗っていた。ほかにも強豪ヨースト・チームがタカQポルシェを走らせ、11号車はレイトンハウス・ポルシェであり、日本のメーカーも凄ければ、スポンサーもどんどん世界に出て行く、そんな時代であった。

~粗悪ガソリンで大変なレースに~

 決勝レースは1987年6月13日、午後4時05分、2周のローリングの後、
正式スタートが切られた。
 朝から雨が降っていて、スタート時はウエットコンディション。
 ところが路面が乾きはじめ、いきなりタイヤ交換するチームが相次ぎ、ピットは混雑、さらにこの年特有の珍事件が発生する。

 ル・マンにおける燃料は集中管理方式が取られる。主催者が用意した燃料である。このオクタン価が低い。という話はテストデーの時からあった。
 ロスマンズポルシェ(ワークス)は異状発火によるエンジン温度上昇を抑制するため水冷エンジンを導入した。しかしプライベートチームは点火系統の調整のみで対処するしかなかった。

 走り出してすぐ、ヨーストポルシェが4周でリタイヤ。もう一台のヨーストも7周でリタイヤ。高橋国光が乗る予定だった1号車、ケンウッド(クレマー)
ポルシェも4周で止まってしまった。オクタン価が予想以下の粗悪ガソリン。がレースを台無した。プライベートのポルシェ勢は抑えて走るしかない。

 WSC4連勝し、勝つつもりでル・マン入りしたジャガー勢は6時間経過時点で1位と2位を走行。
 36号車トヨタ87Cはウエットでスタートし、燃費計算が上手くできず無いのと、燃料ピックアップに問題があって、あと1キロという地点でガス欠リタイヤ。レーススタート後1時間半だった。37号車も粗悪ガソリンが災いし、オーバーヒートを繰り返し、39周でガスケットが吹き飛んでリタイヤした。

 関谷正徳は前日12日に、ル・マン市役所で葉子さんと結婚。ホテル・コンコルドで披露宴を行ったが、結果には結びつかなかった。舘信秀も、大岩湛矢も辛く、悔しそうであった。
 またマツダ757の片山、寺田、従野組も34周でエンジントラブル。まさに何もできずに終わった。

~夜はワインでレース談義~

 レースが夜に入ってしまうと、フランスのテレビマンたちは放送をやめる。
 当然、テレビ朝日も中継はスタート6時間をもって一時休止となる。
 詰め所で、私は熊谷編集長、Kプロデューサーとワインを酌み交わす。
 ダンロップブリッジの方に見世物小屋が出て、ほろ酔いで行ったと思うが、
 つまらなくてまた戻って呑む。

 テレビ朝日関係者は、ホテルに帰る人はほとんどおらず、仮眠所で寝る。
 私は、結構酔って、正面玄関の先に止まっているおびただしい数のバスの中の一台に戻って、ここの仮眠ベッドで寝た。寝心地は悪くは無いのだが、「AUTOSPORTル・マン24時間ツアー」は、新婚さんが多く、なんとなくムズムズする。だから酩酊して寝るが勝ちなのである。

 朝方近く、4番手だった5号車、ヤン・ラマーズのジャガーはユーノディエールでタイヤがバーストし、ガードレールにクラッシしてリタイヤ。さらに6号車、ブランドル組のジャガーもシリンダーヘッドにヒビが入り、リタイヤ。

 夜明けを向かえトップは17号車ポルシェ。
 4号車ジャガーが追うが、その差は6周と開いた。さらにエンジンがストップしトラブルを修理。このため24周遅れの5位に落ちた。
 ニッサンは32号車と23号車共に。朝方姿を消す。粗悪ガソリン由来のエンジントラブルだった。13人の日本人はこの年誰もチェッカー旗を受けていない。

 (ゴール後の表彰式。旧ピットビルは、大混雑。これがまた良かった)


 結局、優勝したのは17号車ワークス・ポルシェ。シュタック、ベル、ホルバート組。ジャガーは5位。悔しいジャガーは、壁に「WE WILL BE BACK」と書いてル・マンを去った。

 これが私のル・マンの第一歩だが、大先輩のビル大友氏はすでに1966年にモナコとル・マンを見ている。高斎正先生は1982年にこの地にいらしている。同じ年にすがやみつるさんも来ている。

 諸先輩も先達だが、同じテレビ業界でも、株式会社ワイツーの社長 山田百合子氏も、随分早くからル・マンに来て、さまざまなドキュメントやCMをお作りになっていた。この87年もワイツーの事務所にお邪魔して美味しいワインや食事を頂いた。私のル・マン探検は、そうした人々に支えられて第一歩を記したのである。まさに幸運と言って良い。感謝あるのみだ。(第一話 了)